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zoom RSS 仏教的慈悲とは?良寛様の場合

<<   作成日時 : 2014/04/17 07:10   >>

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代田掻き襤褸の如くに父眠り 玉宗

仏道に於ける慈悲を考えるときに思い浮かぶのは良寛和尚の逸話である。
良寛が71歳の時に京都で大地震が起きた。三条付近は大きな被害に見まわれたとある。良寛は友人の山田杜皐を励ますために手紙を書いたが、その中に、現代人もよく知っている次の一節がある。

『災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候』

人類には知恵を尽くして災難に対応してきた歴史がある。まさに人類の歴史とは災難に学んできた歴史でもある。当時も今も、被災者や復興に関わる人達にとって、良寛の言葉は到底受け入れられないトンチンカンなものであるかもしれない。それは、禅問答が畢竟、私ひとりの迷いを払拭させる地平へ誘おうとするものだからだ。

悪魔でもあるまいし災難を待ち望む者などいないであろうが、災難に遭うこと、それは幸運と出会うのと同じように、出会いがしらの、思いの外の「縁」というべきものであることを知るべきである。「縁」から「逃れる」ことが出来るというのも、弱い人間ならではの切ない夢・妄想ではないか。確かに災害を防いだり、その被害を最小限に抑えることは可能かもしれないが、「縁」とは本来的に私が左右したり、選べるものではない。

人生にはさまざまな災難、苦難、困難があり、文明とは人知を尽くして災難への受け身を学んできた記念碑でもあろう。言い換えるならば、それらは全て人間の条件である「外」への働きかけである。
仏法は、「内」へ向けた人生の受け身を学ぶ一つの道ではないか、というより人間の条件である「内外」への関わり方を教えている。私の、身と心に起きる災難からの受け身が宗教の領域というものであることを良寛の言葉は気付かせてくれよう。良寛は出家者の守備範囲を逸脱せず、誠実に答えたのである。

どんなに逃げても逃げ切れない、私の迷い、煩悩があり、四苦八苦があり、生死がある。そのような「縁」との関わり合い方の問題があり、それらの自己に於ける根本的解決こそが如何なる災難からも立ち上がる最も確かな妙法であることを良寛は諭したのである。それが良寛の慈悲の一つの働きであった。

良寛は、何が起きるか分からない人生を、あるがままに、抗うことなく、執着せず、欲に絆されず、淡々と生きる覚悟を静かに語っただけではなく、自らそれを実践した。自己が自己に落ち着き、ぶれない。それをしも仏道的救済のめざすところであり、良寛はそのような慈悲の典型だった。その生きざまは社会的には無能な人間に映っていたことであろう。その正体が、小賢しさや作為や社会の毀誉褒貶に惑わされない慈悲に生きるという自己決着の為せる業であることを理解している人は、今も昔も少ない。

人生に於ける災難からの受け身。その一つのあり方として良寛の逸話がある。それは我々に仏道の慈悲とは如何なるものであるかを問い掛けて来る。


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「桃の花」

飾らない二人の暮らし桃の花

菊分つ生きてゆくのが癖になり

囀や自暴自棄にも朝が来て

花屑を掬えば夜の肌触り

雲水に貰はれてゆく仔猫かな

鳥の巣へ鳥を戻しにゆくところ

陽炎や身を持ち崩すにもほどがある

土手に影春満月をゆく人の

たらの芽のこれみよがしの高さなる

同じ月仰いで朧なる二人




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