再生への旅

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zoom RSS 今日の妄想・自灯明の人生

<<   作成日時 : 2014/04/28 21:57   >>

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春ひとり花束担ぎゆく男 玉宗

「みづからを知らむとするは生きるものの定まれるならひなり」

初めてこの言葉に接した時、雲水であった私は、それまで迷いぬいてきた人生の歩みが肯定されたとまでは言わないが、曲りなりにも無駄ではなかったと感じたものだった。お粗末ながらも「自己とは何か?」に拘りながら生きてきたことへのお墨付きを頂いた様な気がしたものである。

顧みれば、自己とは何かと自問自答することは、人生とは何か、現実とは何かと問うことに等しかった。人生、現実、つまり生きている今の実体。そこには私というものに拘っても拘らなくてもなんともない、実に虚しさの極みでもあるようななんともなさ、なるようにしかならないと言い逃れるしかないような、あるがままの世界が展開されているとしか言いようのない私を越えた領域がある。

そのような掛け値なしの、絶対的な世界がある。現実を尊重して生きるとは、そのような事実を受け入れて生きる柔軟さのことを言うようである。柔軟でなければ生きて行けないのが生きるものの定めでもあろう。本来の自己を見据えていきるとは実にそのような命の然らしむるところでなければならない。

自己を知り、自己を生きるとまでは誰もが口にするが、正確には自己を忘れることこそが仏弟子の面目でもあろう。それこそが人生を逞しく生き抜いてゆく公然の秘訣なのである。自己の真の姿を知るものはしなやかで、拘るものがない。だからこそ逞しい。糸瓜は糸瓜で、お螻蛄はお螻蛄で、私は私で生きゆくしかないからこその苦難と救済。それはおそらく神様でさえ咎めることはできない存在の条件なのである。

自己の内外に輝き影なす鏡のような命の実体。それを覚知し、見極め、それ自体を灯として歩むこと。人生とはそのような自己を学ぶ果てしない道程なのである。



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「独活」

独活採りになくてはならぬ男とか

竹の子を喰ふに手間取ることをして

山ほどの蕨を喰へと詰め寄られ

翳のなき空を讃へて藤垂るゝ

父植ゑし海老根ぞ父の淋しさよ

真青なる空に影して花あけび

若葉風空が脱皮をしてをりぬ

巡礼の脚投げ出して芝桜

長瀞の巌を裂いて山躑躅

飯粒やにんげん野山に遊ぶ日ぞ

鶯が戦後の如く間延びして

あきらめて蜂が空から降りてくる


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「韜晦」

気負ひ立つ風を宥めて花かりん

白雲が坂の途中や四月尽

蝶に会ふ茫然自失ありにけり

うかうかと生きて躓くうまごやし

怒りと違ふ何かが滝と真向かへり

鳥声のあらそひ春も闌に

韜晦もならず杉菜を摘む暮らし

眉はきに忍びて下野のこころざし

竹秋の里へ降りたる薬売り

萩若葉風を誘ひはじめけり

蜘蛛の糸癪に障れる高さにて

黄泉路来て著莪の花見て立ち眩み








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