再生への旅

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zoom RSS 生きてゆく力・空に生きる

<<   作成日時 : 2014/06/10 17:06   >>

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待つことに慣れてしまへり蚊遣焚く 玉宗

生きている私とは、人の世に生きているのである。
様々な関わり合いの中で支えられ、揉まれ、癒され、傷付き、学んでいる私という取るに足りない存在。私という掛け替えのない存在。相対的であり且つ、絶対的でもある領域を生きている私のいのち。

ときに生きていく力がなくなりそうになるときがある。もっと生きていく逞しさが欲しいと思うときがある。
ああでもない、こうでもない、四苦八苦のさ中で視野も益々狭くなり、ものごとの実相が見えなくなる。何かにつけておれが、おれがという被害妄想や慢心に苛まれている。

執着や拘りという凝り固まったものを持ち歩いて生きては碌な事にならないのは目に見えている。人生を逞しく生きるにはどうしたらいいか。

柔軟心を身につけることである。柔軟心とはつまり執着を離れる心術を言うのである。仏道とは実相のままに生きること。ものごとの実相とは空なるものであり、私という執着を遥かに越えてやってきたり去って行ったり、事がなったりならなかったりしている。因果歴然として誤魔化しの利かない世界での展開があるばかり。「私」にしがみつき、拘るものにとって、あるがままに生きるとは実に難行でもある。

柔軟に拘りなく生きる者にとってあるがままに生きるとは実に難易を越えた次第のなんともなさである。ただ、そう生きるだけの事。唯、空なるままに生きるだけのこと。行き詰まりとは竟に妄想である。いのちは一つも行き詰ってなんかいない。ただ、いつも、そうあるだけ。

いのち大事に生きるとは「私」に執着することではなかった。あるがままの世界へ身も心も投げ入れることだったのである。諸行無常の人生を逞しく生きる力、それは外から授かるものではなかった。自らの内に本来育まれているいのちのあるがままの姿を言うのである。それは比較を越えて、いつも私だけのものとして尽くされている。


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「拱く」

ががんぼが足拱いてをりにけり

日の暮れを待たされてゐる花菖蒲

繍線菊の花がもやもやしてをりぬ

瘡蓋のごとく置きたる藺座布団

海原を叩き夏蝶来たりけり

吹きぬけて若葉風とは知られけり

六月の浜辺を洗ふ波の音

豆飯のどこか手抜きの味がして

飯の汗ときどき母が怠けたがる

尻叩く手もて瓜揉む母なりし

お不動の滝に打たせて瓜冷やす

なし崩し的に入りたる梅雨だとか


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「梅雨籠り」

十薬や血脈つひに仄ぐらき

花樗にほへと風の立ちさわぎ

梅雨籠る漣ほどの煮炊きして

旅に仰ぐ能登の木天蓼花つけて

虎尾草を手に裏山を降りて来し

蚊帳吊るや山の向かうに日が落ちて

繍線菊や人と訣れしまなざしに

夜を妊りほたるぶくろは耳塞ぎ

おほかたは果敢なき夢を古簾

昼寝覚めみぬちに洞のやうなもの








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