再生への旅

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zoom RSS 空っぽでなければ施せない?!

<<   作成日時 : 2014/07/06 05:55   >>

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暮れてゆく水のにほひや月見草 玉宗

永福寺では毎月お地蔵さんの縁日に、その月に戴いたお布施と物品を書き出して、本堂に貼り出し回向している。不景気のせいでもなかろうが、最近はその項目の半分以上を物品が占めているようになった。お花 、御仏米、お菓子、梅、茄子、胡瓜、トマト、豌豆マメ、キャベツ、昆布、若芽、じゃが芋、烏賊、等々。まるで物々交換のような有り様である。言うまでもなく、人様からのお布施で露命を繋いでいるのがお坊さんである。ある意味その日暮らし的生き方ではある。いづれにしても、財施を受けるに値する生き方をしているだろうかと、毎月書き出すたびに反省させられる。お金をお布施して戴くのと違った有難味・真心が「もの」にはある。

嘗て、沢木興道老師は「お坊さんは人並以上の暮らしをするべきではない」というようなことを言ったらしい。人並な生活がどうのようなものであるか、時代と地域性によっても異なり、一概に言えないかもしれないが、現在、巷間耳にし、目にするお坊さんたちの暮らしぶりをどのように思われるだろうか。否、他人事ではなく、私の生き方を見たらなんと言われるであろうか?社会的風潮として、お坊さんが敬して遠ざかりたくなる存在となる要因がその暮らしぶりにあるのではないかと思わないではないが、一方で、ものや財の多少で左右される道心というのも情けない話ではある。

ところで、お坊さんは一方的に施しを受ける存在ではない。自らが率先して、身を施し、心を施し、ものを施し、生を施し、死を施し、法を施さなければならない。施しのプロ。貪ることのない身心ともに柔軟な姿勢でなければ何も入ってこないし、何も創造することができないだろうし、空っぽでなければ施すこともできないのが現実ではなかろうか。布施行は絵空事ではない。人生の真実であり、人間社会の真相であろうと思っている。欲望の彼岸を志している仏弟子修行の真偽、それは私がどれほど無一物に徹して生きているかということに尽きるだろう。

施しを受けて卑屈にならず、施して慢心を起こさず、生老病死に於いて常に淡々と四苦八苦してゆく。一切の苦厄のあってなきが如く、風鈴がどんな風にも自在に響くように、空っぽになって、あっけらかんと爽やかに生きてゆきたいものである。


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「臍の緒」

臍の緒の行方も知れず雲の峰

さらさらと星に願ひを書く日かな

その中に僧の紛るゝ裸かな

飛ぶ鳥の腋の広さや海開き

合歓の花花が寝惚けてゐたりけり

出口より入口冥き昼寝かな

木になれず虎杖の花いや高き

夏帽子顎から上がなかりけり

花垂れて血を吐く蛍袋かな

殴られて目から石榴の火花咲く





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「雨後」

風にやゝ遅れて蓮のゆらめきぬ

ダリア剪る雨後の雫をこぼしては

月下美人そそのかされて咲き出しぬ

白日にのうぜんかずら咲き已まず

大海に浸す踝実はまなす

うれしくてならぬと雨後の夏燕

母が待つ坂の途中や実梅落つ

夕月に蠢く烏瓜の花

母がりへ雨後の青柿落ちにけり

蓮の葉の浮いて水面のやすらぎぬ














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