再生への旅

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zoom RSS いのち施し、施され

<<   作成日時 : 2014/08/03 21:46   >>

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死は生の褒美のごとし茄子の馬 玉宗

興禅寺の施食会法要が終った。
今年は先代住職の23回忌、先々代住職の37回忌を併修した。
法要後の説教では「施食会」ということで「食を施す」ことの意義について語ったことである。

興禅寺の先代は当時の祖院監院鷲見透玄老師が兼務されていた。亡くなる一年前に私に住持職を譲り、晋山結制も済ませた。爾来23年、住職として、そして一人の社会人として今日まで食うにも困らず、餓えることもなく過ごして来られたことに改めて生きることの縁、その不思議さ加減に思いが到るのである。
人の一生の食いぶちは生まれた直後から天命で決まっている、といったことも言われる。布施とは貪らざることとは、実に至言であり、どんなに貪っても己にあたわるもの、ほどこされる分といったものは手の着けようがないのが私の実感である。

山門の二輪という言葉がお寺にはある。一つは「法輪」。お坊さんとして勤めるべき仏法教化、それが十全に法輪として回転しているのが理想である。もうひとつは「食輪」。お寺の常什が仏法維持のために十全に賄われて回転しているかどうか。「法輪転ずれば食輪転ず」といった宗門の口伝もある。お坊さんとしてやるべきことをちゃんとしていれば、食うに困ることはないといったような事だ。これは一般的にも言い得る、いのちとは施し、施されつつの存在ということと同義であろう。

人間が生きている実際のところは、食うために生きると言い切ることができないようなところがある。それでは、生きるために喰うだけなのかと言えばそうでもないのが本当のところでもあろう。というより、食う為に生きるとは、又、生きるために喰うとはどういうことか、それは等閑にできるほど解り切った自問自答だろうか。生きる事は食う事であり、生きることは汗をかくことであり、働くことであり、考えることであるが、食う事はそれらを支える基本である。いのち生きるとはそのような人間の設問を越えて食べる作業に支えられて具体的にいのちしている。人間は食べることに対し傲慢になってもいけないし、遠慮し過ぎてもいけない。どちらかに偏向するのは間違っていよう。

生まれたときも、生きている今も、いのちは天地、自然、人間社会の施しを実践し、施しを受けていのちを繋げて来ている。食を施し施され、心を施し施され、身を施し施され、言葉を施し施され、生を施し施され、空を施し施され、実を施し施され、そして、そのような人生の最後は「死」という天地への回帰、最後にして、永遠に繋がる施しを実践しなければならない。先人がいみじくも言ったように、当にそのような意味では、生きるとは死ぬことの練習ではあったのである。


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「ゆふべ」

みんなゐて夕べたのしき花茗荷

海越えて来たりし裔の裸足とか

さよならの夕べをきそひ月見草

虹なして睦みあひたる合歓の花

嫁に入る狐の夕べダリア剪る

夏風の分け入る先や萩の家

西瓜ばかりたらふく喰うてむなしさよ

無花果熟れて痛さうに甘さうに

船縁を叩いて夏を惜しみけり

浚はれし妻が踊りの輪に入れり

ひぐらしやゆふべは少しだらしなく










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