再生への旅

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zoom RSS 今日のばかやろう・裸の王様

<<   作成日時 : 2014/08/17 19:00   >>

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鶏頭の花といふには強情な 玉宗

私はお坊さんというものが只、仏の方を向いて生きている存在者だと思っていて、人様より劣るとも優れているとも思っていない人間であるが、ときに、人様から施されっぱなしのお坊さんが自分を何様と思い込んでいる御仁に出会う事がある。それはなにも、常什的に潤っている肉山の住職だからというのではなく、仏法をわがもの顔に私物化している自称本物にも当て嵌まることである。様々な意匠を以って自己を誑かし、人を誑かす。

口では殊勝なことを言うのであるが、それは慢心の為せる業としか言えない謂わば「裸の王様」的な自己偶像崇拝の落し穴に嵌っている。本人はそれ気づいていないというのが如何にも、おめでたいし、救いようのなさを呈して余りある。仲間内の悪口をいうのも益のないことではあるが、施しのプロでもなければならないわが事と顧みた時、それは他人事ではない愚かさなのである。人はみなわが師であるというのは確かに格言ではあるが、それはときに反面教師の顔をして立ち現われる。

というか、人を誑かすことも言ってみれば無意味で、浅薄な代物だ。施しを受けているのは何も人様からばかりではない。自然界からも多大な恩恵を受けてのわが命である。さすがに自然からの施しを蔑ろにして良い気になっている裸の王様も少ないであろう。そのようなことをつらつら慮るに、仏道とはやはり自己の世界を掘り下げ、豊かにし、帰命することには違いないことに気付くのである。本来的に人様のことを論ったり、関わったりしている場合ではないし、義理もないし、理由もない。ときに人が裸の王様に見える私自身の曇りのない正見が試されている。知足の正命が試されている。


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「いぼむしり」

暮れなづむ虫の秋とはなりにけり

山月に嘯く鬼の捨子かな

蟷螂の眼破れし山河あり

てゝなしの仇打つ構へゐぼむしり

生まれて以来途方に暮れていぼむしり

錫杖を突きし後より赤蜻蛉

風の盆色なき風に舞ふしぐさ

白雲に乗り遅れたる秋遍路

ゼロ番線ホームに解夏の僧ひとり

帰るべきふるさと遠き夜食かな


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「新涼」

新涼や湖渡りくる月の風

コスモスやぽつくり寺の参道の

秋めくやものみな風にさぶらへる

妖しげな石一つ買ひ秋祭

橡の笛鳴らせし兄も鬼籍なる

枝豆や舌先三寸切りもなし

盆波を泳ぎたがりし子を叱る

長雨にしとどに濡れて酔芙蓉

蟷螂のだれを探しにゆく山河

ふるさとの夜や平らかにちんちろりん

峡の空いよいよ深し鮎錆びぬ















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