再生への旅

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zoom RSS 今日の唯仏与仏・親の後ろ姿

<<   作成日時 : 2014/09/24 17:57   >>

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露けさに眠るも僧となりしより 玉宗


真の親孝行とは子が自立することだと述べたことがあるが、子にしてみれば親も又、親として自立してほしいと願っているに違いない。それが子孝行であるのだと子供は思っているだろうし、子は子で一日も早く自立しなければと背伸びをもすることもあるのだろう。子は親の姿をまんべんなく見ているものだ。親に抱く憎愛、絶望、海容、寛容さ、切なさ。親子の葛藤とはお互いの人格をあるがままに受け入れようしているもがきなのかもしれない。

親子という今生の縁もまた一期一会の一大事因縁であり、親は子を得ることで親を学ぶのであり、子がそうであるように、親も又親としての在り方を学ぶ日々なのである。共に掛け替えのない今のいのちを戴き、初めての学びを繰り返している存在であるに変わりはない。そして、縁は「選べない」のがその本質である。親子の縁もその例外ではなかろう。選べないものだからこそ尊いのであり、人生の宝なのであるということ。

親の姿、それがまだ後ろ姿として見えているうちは越え難いといった畏敬の念が残っているのかもしれない。というより、親とは子供にとってよくも悪しくも可能性の典型としての存在であろう。そのような存在であり続ける限り、子にとって親とは越えるべき前衛、前を向いて生きている壁のような存在者でありつづける。人はだれもが自らの後ろ姿を知らないままに人生を歩む旅人である。

旅をすれば視野が広がるものである。それはつまり人生をあきらめないこと、自己を見捨てないことを身につけ、胆に銘じる道程でもあろうか。親が親であることを誇りにできるとすれば、そのような旅の本質を身を以って実践し、その典型となることにおいてのみである。親は子に人生を教え続けなければならない義務がある。権利がある。親子とは限りあるいのちの全うの仕方の本領を伝える出会いと別れである。親は子に、子は親に取って代わって生きることの出来ないながらも理屈を超えて寄り添い続ける信心の最たるものである。



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「手」

手の届くところに月を据えたがり

てのひらは意外とさびし林檎受く

日の当たる方が表で稲架襖

雁落つる首を晒せし辺りにて

手を返すやうなる秋の日暮れかな

つくばねを栞に坊を守る暮し

搦め手に抱き込まれたる秋薔薇

朝露を零して市の荷を解き

蟷螂の泣かむとするも手が鎌で

さびしらのまなこに止まる蛍草



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「恩愛」

腸に沁みる恩愛菊膾

夜なべせし母の音聞く襖かな

障子貼る妻が不憫で謎だらけ

井戸汲むやかりがね寒きあさぼらけ

夜食せる筋金入りのさびしさに

夜学より戻りし兄に夜のにほひ

出稼ぎの父が恋しき蜻蛉かな

どぶろくや語るに落つる腹心の

火宅の灯とどかぬ闇に鉦叩

もみづるや血脈つひに仄暗き

恩愛の忘れやすくてとろゝ汁




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「月の回廊」

鐘撞いて月の回廊戻り来る

二人ではつまらないねと柿を剥く

改札を抜けてほどなく紅葉山

種採るも世を儚むにほかならず

野を守る顔がへのへのもへじとは

暮れてゆく納戸を背負ふ竃馬かな

秋耕の点景にしてまぎれなし

やがてわが腸となる星月夜

爽涼の首に掛けたる頭陀袋

訳あつて糸瓜の水を引くことに

萩刈つて束の間風のよみがえる

菊師来て霧吹きかけてゆきにけり

須彌山の奥の方より虫の声







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