再生への旅

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zoom RSS 興禅寺再建五年にして思う事

<<   作成日時 : 2014/10/01 21:19   >>

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頭陀袋窶れて秋の深みかも 玉宗

能登半島地震に被災し興禅寺は山門を残して全壊した。その後二年を経て再建し五年が経った。
能登半島地震に前後して国内外に大地震が頻発し、三年前の東日本大地震である。東北被災地の御寺院には未だ再建の目途も立たず苦労されている方々もいると聞く。それを思えば興禅寺再建は勿体ない事で被災者然として生きることを大いに憚るのである。それにしても、地震国日本をいやが上にも痛感したこの月日。又、この度の御嶽山噴火は火山国であることも思い出させてくれた。

人生さまざまであるが、大なり小なり、天災・人災に遭わないで過ごすことの方が稀ではなかろうか。十年ひと昔。人生十年の間にも様々なことがあるものだ。有為転変、紆余曲折、四苦八苦、諸行無常の人生山河。そのような無情なる光陰の流れの中で変わって行くもの、そして変わらないものがある。

喉元過ぎれば熱さ忘れる、いのちの危うさを忘れることを戒めるのではあるが、四六時中不安や疑心暗鬼の中で生きられないのも又人間であろう。被災して実感したのは、災害に遭うことも縁であり、生きるとは縁を生きることに外ならず、その縁とは本質的に私の思いを越えている。だからこその人生の宝なのであるということ。生きるとは又、その宝を活かすことにほかならない。生れて、生きて、死んでいくことは、既に人としての宿命を担っているという事である。私自身が私の思いを越えた一つの、そして大いなる縁そのもであるのだということ。避けることも逃げることも、追いかけることも貪ることもできないいのちという縁。それを肝にも、石にも、空にも銘じて生きて行かなければと教えられたものである。

愚かないのちといったようなものはない。愚かな私がいるのだ。震災から七年経って私は再生しただろうか。縁を活かして生きているだろうか。人生の目的はそのような愚かな私を越えることでもある。私は私を越える事で唯一永遠のいのちに繋がることができる。そうであって始めて私は私になるために生れてきたと言い得る。死も又私を越える為に受け入れなければならない縁。再生の日々は死ぬまで果てることはない。


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「敗荷」

城下吹く風の狼藉破蓮

敗荷や耳を澄ませば風の音

蓮の実の飛んで落ちたる水輪かな

一日がほどなく終る蜻蛉かな

おらが山遠ちに火を噴く蕎麦の花

人の声遠くにしたる月夜茸

唐辛子あしたが見えてしまひけり

花園に一糸纏はぬダビデ像

龍田姫迎へに万障繰り合はせ

小鳥来る力仕事をしてをれば

蟷螂の泣くに泣けない手のかたち




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「芋の露」

芋の露ころがり落ちて跡もなし

芋の葉も赤子包めるほどとなり

徒然に抱いて淋しき紫苑かな

青空に手を差し入れて林檎捥ぐ

月も日もつれなく過ぎて花茗荷

萩を刈るくらいのことはせよといふ

吾亦紅花といふにはほど遠く

撫子に咎められたるごと屈む

赤のまゝ遊び足りない子に翳る

新蕎麦や峠を三つほど越えて














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