再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 今日の精進・いのち戴きます。

<<   作成日時 : 2014/10/27 20:55   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


もみづるや生きながらへて見ゆるもの 玉宗

生きているということは、なにがしかのいのちを戴いていること。息を吸ったり吐いたりすることから排便や睡眠に到るまで、分子レベルでのやりとりがされているだろう。いのちの定義をミクロからマクロまで広げての話ではあるが、殺生しなければならん存在の矛盾というか、抜き差しならない存在の絶対性がある。そんなどうしようもない生きている事実があるだろう。

いのち戴き、生かされている事実。それは感謝するしない以前の話しであり、倫理道徳以前の話であり、仏法はどこまでもわたしのいのちの次元での話しであってみれば、他者から強制されるような筋合いのものでないことはここからも明白である。明白過ぎて人はその当たり前さ加減を忘れている様なところがある。

感謝とか有難さとかいったものは、内から已むに已まれず湧きあがるものではなかろうか。仏法はまたどこまでも自主的であることを前提としていよう。親兄弟、先祖のいのちをも戴いて今の私がある。このような眼差し、目覚めは人それぞれの人生山河の果てに授かるものなのであろう。他者が腕ずくで、或いは折伏してなんとかできる筋合いのものではない。

人を変えることができると信じて疑わない類の人もいるようだが、それは竟に妄想であろう。いのちはどこまでも自己中心に自己放棄し、自己解放し、そして自己再生し、自己更新する。そこには私でさえ私を都合のいいようにできはしない実際がある。如何にいわんや、私以外をや。畢竟、人は共感しあうことができる事を是としなければならない。解り合えるとはつまり共感できると言うことだろう。人と共感し、風と共感し、空と共感し、草と共感し、虫と共感し、生と共感し、死と共感する。共感できるからこそいのち戴くことへの目覚めがある。共感できる限りにおいて自己を捨て、自己を忘じ、自己を惜しむことができる。人生はいのちの戴き方、戴かれ方を学ぶ道程である。そして、人生の最後は死といういのちの喜捨行を実践し、更なる再生の扉を開ける。


それにしても、食欲の秋か・・・・、性欲の秋とは聞かないな。もの思う秋か・・・、もの思わぬ秋とも聞かないな。紅葉に酔うてしまう人生なかばのなげやりさがあるかと思えば、朝晩はとくにその肌寒さに襟を正し火を恋しがるようなところもある秋。ものを喰いつつ、ものを思う人間。そんな生きている人間の、哀れさの果てのおかしみ。秋ってどこか滑稽だよね。俳諧的だな。


画像



「紅葉」

見ごろなら十日先なる紅葉とか

焼栗を頬張る旅の湖西線

まぎれなくあれは零余子の蔓紅葉

山ほどの茸を採りてむなしさよ

避けて通る漆紅葉の艶やかさ

柿甘し仏の母のお下がりの

関を吹く風にも色を変へぬ松

紅葉見てゐるだけといふ疲れあり

長養に悟後の猿酒呑み歩き

淡海なる西のほとりの秋夕焼

空晴れて今津の柿のかたきこと

八つ頭拳骨ほどの大きさの

灯点してもの喰ふ秋の底ひにて

つはぶきの咲き誇りたる光りかな



画像


「柿の空」

これ以上背伸びは出来ぬ柿の空

天上に潮ありけり秋燕忌

暮れ残るさびしさにあり石蕗の花

星めぐる峡の深空や吊し柿

よるべなきものみな括り冬用意

一本の葱抜きにゆくゆふまぐれ

焚火してゐる場合ではなかりしと

赤い羽根つけて胸元さざめかす

鹿の妻愛さむとして侮られ

星出でて空稲架下りる夕べかな



画像


「賽銭」

賽銭があの世に落つる秋の暮

空腹に間のある釣瓶落としかな

菊人形菊に身動きとれぬなり

取り合へず二つ欲しがる柚子なりし

こんなところに素性の知れぬ茸生り

窓を打つ雨の音して実南天

我慢にもほどあり菊の残りけり

匂ふかにふるさとの山粧へり

紅葉狩死出の途中とおもひけり

鳥のみちけふは雲ゆく木守柿

















テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
今日の精進・いのち戴きます。 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる