再生への旅

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zoom RSS 今日の虚論・現実と理想という名の化け物

<<   作成日時 : 2015/07/18 09:34   >>

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きちかうや二人で生きてきた朝の 玉宗






『【私は戦争に反対もしないし、原発に反対もしない】』


こんにちは。
太田華代です。
ここ1週間考え続けていたこと。
「私は戦争に反対もしないし、
原発に反対もしない」
少し前に特定秘密保持法成立について、
「反対!反対!」と署名運動などが行われていました。
そして、今は安保関連法かな。

「反対ですよね?署名しましょう」
なんて、私の周りもざわざわしています。
でもね、私は冒頭に書いた通り、
「私は戦争に反対もしないし、
原発に反対もしない」

戦争に反対するということは、
「戦争が憎い、戦争はしてはいけない」
という気持ちの表れ。
原発に反対するのは、
「原発が憎い、原発は危険だ」
という気持ちの表れ。

そのエネルギーは
「負」のエネルギーそのものです。
私たちの思考は現実化する、
と言われています。
実際にこれは量子力学などで証明されています。


私たちはすべてエネルギーでできているから。
命ではないと思われる、あなたの目の前のスマホやパソコンだってそう。
エネルギーなのです。
私たちが天に放ったエネルギーは
そのまま現実のものとなって目の前に現れます。


「戦争が憎い、憎い、憎い」
のエネルギーは天に放たれ、
また私たちの前に現れます。
私は戦争に反対しません。
私は平和を願います。
そして、願うというのも言葉のニュアンスとしてうまくないのですが、
平和そのもののエネルギーで生きるのです。
全ての人が平和に暮らしていること。
その思考をエネルギーに変えて、
天に放っているのです。
私は原発に反対しません。
私はクリーンエネルギーを作りだす人たちを応援します。

結局、「反対!反対!」と言って、
「じゃあどうしたらいいの?」に目を向ける人は少ないのです。
それが正義だと感じるから。

マザーテレサは言いました。
「私は反戦運動には参加しないけど、
平和運動には参加するわよ」
と。
マザーテレサはエネルギーについて
よく理解していましたから。

何かに反対するなら、
自分の理想とする世界を想像してみる。
そして、その理想を一緒に応援したらいい。
安保関連法に反対するなら、
自分の理想と同じ価値観を持って活動する人を応援すればいい。

戦争に反対する人は、
「世界平和」を願っているんだよね?
じゃあ、「世界平和」を祈ればいい。
もっというなら、
「祈り」とは「現状では違う」ことをエネルギーとして放つことでもあるので、
やっぱり、
自分自身が「世界平和」の意識で生きることだと思う。



以上のような内容のブログに対して私は次のようなコメントをしてFBにシェアーした。

「平和も反戦も国民意識も数を恃んでどうにかしようとするのは闘争というひとつの輪廻を繰り返していることにならないか。今こそ、「個」に目覚めるべきだと、そんなことを教えてくれる。思想とはついに一人歩きするものだ。現実を尊重しろといいながら現実に流され、理想を掲げながら現実を直視しない人間。人類の愚かさとは何であるか、人類の知恵とはなんであるか。冷静になって自問自答するべきではないのかな。私は仏弟子として犀の角のように一人歩きます。逃げも隠れもしません。」

それに対して以下のようなコメントのやり取りをしたので、そのまま紹介します。仏道には「戯論の咎」ということが言われています。畢竟、論のための論を戒めるものですが、それは今、ここに、生きている命の実相に目覚めることが仏道の面目であるという前提があるからなのだと、いつもこのようなやり取りをして気づかされもします。宗教を持たない人間と公言する人間との土俵の違いを感じるしだいです。

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石月 正広 もう少ししっかりと物を見て、しっかりと考えてください。いま日本でなにが起ころうとしているか、きちんと正確に見つめて欲しい。「反対、反対」は嫌いで、「しない、しない」は良しですか。実際に殺し合いに参加しなくてはならなくなったときに、あなたはなんと仰るのでしょう。「いやだ。いやだ」は通らないんですよ。

市堀 玉宗
もとより殺し合いに参加するつもりはありません。シェアーしたリンク先をしっかり読めば、反対はしないが平和を祈るといっています。実に具体的な生き方ではありませんか。個」はよわいものでありつつ、またかけがえもなく逞しい存在であるということを気づかせてくれます。石月さんの文学活動もそのような信念の歩みなのではないのでしょうか。

石月 正広
先の戦争のときも、そう仰った方は大勢いたと思います。だけど、征かされてしまいました。赤紙がきたときは、潔く自死する覚悟だと仰っているのなら判りますが。

市堀 玉宗
仏弟子として自死は選択しません。投獄されるかもしれませんね。あるいは非国民と大衆に石を投げられるか、村八分にされるか。もっと山奥へ逃げるか、私のことですから理想と現実のハザマでじたばたいきていくことでしょうね。あるがままに生きていくだろうと思います。それでよしとします。以前にも言ったかと思いますが、仏法は善悪を立てません。時流に流されて生きるとはいかにも悔しいことだとは私とて変わりのない思いがあります。

松本 勇一 エネルギーの概念使用に疑問に思います。物性的概念使用と、精神的概念使用を同列に論じる語用は、カルトやスピリチュアル系と何ら変わらない。文学的にエネルギーと書く場合があるが、大田華代という方、そのような概念の遊びで書いていると思えない。「負のエネルギー」概念使用、人をネアカ・ネクラに二分するカルチャー・スクール的論法に思えて仕様がない。マイナス思考に包まれてもよいではないか?人は毎日を悩む、悩むのが人、一刀両断に人間の精神を切り刻むのに疑問。←「正法眼蔵随問記」の受け売り。

石月 正広 ぼくはもう高齢です。戦争に行って、人を殺すことも、殺されることもない。だけど、若い子たちに、人を殺すことをさせたくないのです。それを実現するためには、「反対はしないが平和を祈っている」では駄目なのです。それに原発の問題は、そんな単純なことではありません。

市堀 玉宗 エネルギー云々のところはわたしもよくわかりませんでしたが、「個」に徹しようとする潔さはまさに仏道ではないかと共感した次第です。問題を単純化しているのはどっちなんだろうかと世相を見ていて時々思います。単純でないから本人には問題なのでしょうし、問題でないからこそ単純化するのでしょうね。というより、事を問題化したくないから単純に生きていくといったことかな。それって、もしかしてだれもがやっていることではないのかな。賛成派も反対派も。それを非難しているのではありません。極端に偏りがちな人間の性をときに哀れむのです。お釈迦様は生まれた国が争いに巻き込まれたときも、菩提樹下に座って瞑想を続けました。素手で生きぬいたのです。「個」に目覚める。宗教というものに抑止力があるとしたらこのようなかたちでしか社会にアプローチできないのであろうし、それが全うなあり方だとも思う訳です。

松本 勇一 市掘さんに友達申請かけたのは、道元を尊敬する、と書いて友達になっていただきました。「「個」に徹しようとする潔さ」仏門の市掘さんならではの心情の吐露かと思います。別減すれば、「個」であるとか「国家」であるとか、語の概念使用、私は相対的にしか使用できない。一つの文脈、コンテクストの中で、如何に「個」という概念を使用するか?私情ですが、朝の私と夕べの私が違う。人格の自己同一性という言い方があるが、私は私に病的な側面があること否めない。仏性的には、煩悩と名づけられる?私は仏弟子になれないな、と諦めてます。市掘さん批判でない事、了解ください。座右の銘「ケ・サラ・セラ」悩んだ末の私情です。

市堀 玉宗 承知していますよ。お大事にお過ごし下さい。合掌

松本 勇一
仏法は善悪・正邪・正誤を立てない。赤裸々のリアリズム。あの世は無い、それが仏教であり、それ以外は邪宗、邪教。そのように承知してます。だから、足下の今生を丁寧に生きよ、と教えている。承知していても、気持ちのブレが毎日。気持ちが落ち着かない日の真夜中、バッハやジャズを聴いて癒される。”自分で”癒そうと努めているのではない。不思議です。

市堀 玉宗 仏道は畢竟、自己を忘ずるの道だと思います。作為ではなく、無為こそが自己救済にして自己確立の方便門なるゆえんかと。お大事に。合掌

松本 勇一  市掘さんの作句全体に流れている作法だと思います。創作しているようで、創って頂いているような。憑依というか、ゴッド・ハンドという表現がある。しかし、大量な多作、その奔放さにただ脱帽。発想の多様。

市堀 玉宗  煩悩のままに作為せず生きているということです。(^^)

金子 忠政  単純化という暴力に対抗するためのやむを得ない暴力というものが、この今はある、あってしまう。弱々しいがゆえに、それゆえに、「この今」だから、本当に弱々しくなってしまわないように、ノン!と言わなければならないと重います。


市堀 玉宗
体制派だろうが反体制派だろうが人を変えることはできない、しかし自分なら変わる可能性があるというのが私の人間観察でありものの見方であり、そのまま仏弟子である私の基本的な生き方です。私という弱い人間の「私自身にある愚かさへのノン」ということでもあります。今の為政者たちが戦争への道を回避しようとしているのかいなのか私にはわかりません。彼らが悪人であるのか善人であるのかないのかわからないのと同じように。それは他国、つまり私の外の世界への観察においても同様です。戦争への道に手をこまねいているという批判は甘んじて受けましょう。しかし戦争になったりならなかったりするという力学はそれほど単純なものでしょうか。それほど片手落ちなものでしょうか。将来の子供たちへ平和な世の中を残したいと思わぬ親や大人があるとは思いません。仏弟子には仏弟子の反戦、平和へのアプローチがあろうかと思います。体制派や反体制派などの「数の運動」に感じられる「排除や憎悪の論理」や「現実や理想という名の化け物」への恐れ、違和感のようなものをぬぐいきれないのです私は。何度もいいますが、シェアーした記事にはそのような「問題の社会化」を懸念する「個」への目覚めがあるものと共感した次第です。「恨みは恨みを已むことによってのみなくなる」「愚かさは愚かさを已むことによってのみ已む」という「個」への徹底、それが私の、私一人の「反戦運動」であり「平和運動」です。それこそが非国民であるゆえんだと非難されるのなら、それもまた甘んじて受け入れるほかはありません

松本 勇一  「〜でなければならない」と語った瞬間、信仰を離れてしまう。仏の道は「社会的規範」を嫌う。だから、市掘さんの正直な心情の吐露でよろしかろうと思います。


石月 正広
市堀さんの「お釈迦様は生まれた国が争いに巻き込まれたときも、菩提樹の下に座って瞑想をつづけていた」は、いま現在、戦争をはじめることにした日本にあてた例えとしては適切ではないように思います。ともあれ、仏教と戦争の話は、ここでは語り尽くせないのでやめましょう。
話を原発に絞ります。そしてそれも、さらに的を絞りましょう。いま福島のある村では、「もう、あなたの村は安全になったので、村帰してください」という国からのお達しがなされています。ところがその村の現在の放射能の線量は、チェルノブイリでは避難勧告のでる数値なのです。いまも馬がバタバタと死んでいっている地域なのです。当然、村民たちは怒っています(これは負のエネルギーではありませんよ、太田華代さん)。だって当たり前でしょ。そんな危険な場所に、愛する家族を連れて戻れるわけがないのですから。怒り、苦しみ、悩み、嘆き、悲しみ、訴え、……太田さんが戦争や原発について一週間考えつづけたという比ではありません。「原発は憎い、原発は危険」こう叫ぶのが、負のエネルギーだというのは、あまりにもつれなくはありませんか。
ぼくは想います。もしもお釈迦様ならば、その村へ足を運んでいるのではないでしょうか。……さて、そこで村人たちになんと声をかけられるかは、ぼくには正確な想像はできませんが、「原発を憎んではいけません」と教えるとは思えないのです。
「個」を切りひらくことも大事ですが、世の中を見つめることを抜きにはできませんよ。太田華代さんの文章を読んで、いつものぼくならば「チェ」と舌を打って通りすぎたことでしょう。だけど多くの人に影響力を持つ市堀さんのシエアとあっては、見過ごすわけにはいかなかったのです。

市堀 玉宗 生きるとは具体的なことであるとは常々気にかけているつもりではあります。「個」が「個」であるためには「社会という関係性」を抜きにしては考えられないという指摘はごもっともです。その辺は私自身、現実に目を瞑りがちな人間であることは認めざるを得ません。出家の初心が「世間からの逃避・欲望世界からの離脱」だったことからすれば、「政教分離」という社会的立場とは何の関係もなく、きわめて個人的な言い逃れなのかもしれませんね。他者の痛みに寄り添えるお坊さんでいたいと望んでいるのですが、自己がそうであるように「他者」もまたなかなかに一筋縄ではいかない代物です。もっと精進しなければいけませんね。合掌

松本 勇一 屋上に屋を架す愚の様相を避ける意味で、石月さんが「この辺で打ち止め」と語られる。賛成です。市掘さんの真摯な物的ニヒリズムに、大田華代さんという方の論法が絡め取られてしまう危険があるから、要らぬ議論は打ち止めが正解だと思います。

星野 早苗 この女性のブログには、問題のすり替えがありますね。今、70年の平和に反対してるのは誰でしょうか。原発を、安全や人命尊重に反対して無理矢理作ったのは誰だったんでしょうか。こんな頭の悪い人がブログ書いてるなんて信じられません。顔に惑わされちゃダメですよ。


石月 正広
星野さん。いま、この太田華代さんの書かれいるのとそっくりの記事が多数、出まわっているという連絡がぼくのメッセージに入ってきております。ぼくに寄せられたものを拝見するに、それは驚くべきものです。たぶん、市堀さんも、気づいておられないのではないかと想われます。
想うに(まったくの推測でありますので)、行き過ぎは避けます。ですがこれは、若者を安倍政権に取り込むための罠であるようです。いま、これ以上の発言は避けます。くれぐれもご注意を。

星野 早苗 ありがとうございます。私は今日、金子兜太さんの揮毫された「アベ政治をゆるさない」という紙を1時に掲げるというアクションに「俳人として」参加してきました。ブログより街頭に出る方がエネルギーが入りますが、かなりの人数が集まってました。集会も面白かったです。 若者は「シールズ関西」の子たちが登壇して、かわいかったですよ。私はシールズ応援しています。


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「森の空」

夏籠の森の空より星流れ

父母のあの世気になる安居かな

ふるさとの夜の深さよ万燈会

偶にくる風に涼しさありにけり

文字摺草雨後のきれいな声とどく

月星を渡るすべなき端居かな

母の手をささへて渡御を迎へけり

向かうへと渡れとばかり蝉の声

幸あれと朝顔けふを咲き継げり

凄まじき昼寝の妻を見るに見かねて









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幸せを 求めてすなる いくさしも
いくさ いくさも 輪廻直中

開扉せし いのちの蔵を 観ずれば
水面に落つる 雪のごとある

為すすべの 無くとも為さむ いさおしは
智慧の眼ひらき 祈念す平安
京の藪内
2015/07/19 05:18

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