再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 生老病死に寄り添う

<<   作成日時 : 2015/08/24 18:18   >>

トラックバック 0 / コメント 1

画像



汝と生きるほかに欲なき桔梗かな 玉宗


私は亡くなった実の父母に対して未だに負い目がある。
実姉夫婦に二人の面倒を見てもらい、二人の晩年に付き添うことをせず出家したことだ。出家が人生再生の一つの賭けであった私。自分のことしか考えることができなかった愚かな息子ではあった。父も母も私には優しかった。二人に叱られたという記憶がないのである。それでも私は親の存在を持て余していたのである。親を殺したがっているのかもしれないと思うことさえあった。それほど自分の人生に展望が利かず、迷っていたのである。そのような恩知らずの人間が住職になって何回も葬儀をしている。その都度、死に顔を拝見し、死に水を含ませ手を合わせる。土に生きてきた老人の大地のような安らかなものから、冥界へ引き裂かれるごとき苦痛の表情まで様々な死に顔を拝見してきた。死に顔にも表情がある。ときには崩壊する肉体へ蛆や蠅が集っていたこともある。当に死の端的である。

父母の臨終に立ち合うことはできなかったが、二人の葬儀には駆け付け、私が導師として引導を渡した。やすらかな死に顔を見て些かの安堵感があったのを記憶している。「北晨院海徳義道居士」「南窓院帰法妙依大師」
北海道の海に生きた父とそれに最後まで付き添った母への、せめてもの贈りものであった。親の晩年や臨終に付き添うことをしなかった負い目からだろうか、今では家族や檀家さんの生老病死をしかっり見つめ、寄り添いたいといった思いがどこかにあるようだ。どうしたら一度限りの今生のいのちを、後悔なく生き切ることができるのか。それを生老病死そのものからしっかりと学ぶこと。遅まきながらも、それが亡くなった父母に寄り添えなかった私という人間の業であり、尚且つ両親への回向なのである。

「メメント・モリ」という言葉がある。
ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句だそうである。諸行無常は古今東西を貫通する真理であろうから改めて驚くに当たらないのであるが、「忘れる」癖も又、同様に古今東西の人間に備わる才能なのだと思い当たる。考えてみれば、生きていることが当たり前だという思い込みは極めて幻想的な、阿片的なもの、誤解の最たるものなのかもしれない。今、生きていることが奇跡であると云われても、その余りのなんともなさに人はいつしか死を考えなくなる傾向がある。癖と言ってもよかろう。それはまた極めて自然なことのようにも思える。なにもかも「忘れることが出来ない」とは一つの地獄であろうし、気が触れてしまうだろう。

「忘れる能力」それは「無常」を直視するために人間は精神の柔軟さを獲得しなければならなかったということなのであろう。死ぬべき命であることは勿論、常ならぬものなど一つもないのだという諦念が今を生きる事の充実への一歩なのだと聖者はいう。確かに、ありのままを受け入れ、生きることしか私に選択の余地はない。
人生とは、儚い、一瞬の命の夢、創造物、芸術のようなものかもしれない。美は儚さの兄弟のようなものだ。永遠の命と云うものがあるとしたら、それはまた頗る孤独な、出来の悪い創造物のように見えてくる。「死すべき命であることを忘れるな」それは確かに賢者の言葉である。と同時に、余りにも人間的な言葉でもある。一寸先は闇であるからこそ、死ぬべき命であるからこそ生が輝くのであろう。それはまた、儚い命である人間同士への寄り添いによってこそ獲得できるものなのかもしれない。人はひとりでは輝かない。人と共にいることで照らし合う存在なのだろう。

私が私として生き、死ぬ、それだけのことに惜しみない天の采配がある。思えば不思議なことであった。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

画像



出版元である邑書林へ申込の方はこちらから↓お求めください。 

邑書林http://youshorinshop.com/?pid=91226737



作者へ申込の方はこちらへお願いします。

〒928−0074

輪島市鳳至町鳳至丁139番地 市堀玉宗



お支払いは郵便振込の場合、以下の通りです。

口座記号番号 00730ー9ー  94330
加入者名  興禅寺
 

通信欄にお求めの冊数を記入の上お申し込みください。
手数料が掛りますので、定価1500円でサービス頒布します。一冊について、「1500円+送料215円」を振り込んで頂くことになります。







画像



「音色」

橡の実の笛の音色を競ひあふ

白雲も見飽きにけりな鹿火屋守

コスモスの風にも家出してみたく

水落ちて風がさ迷ひはじめけり

茶を淹れて向かひ合うたる処暑の妻

鵯の銜へし蝉がばたばたと

鳥威し仕掛けて逃げてゆくところ

地蔵盆賽の河原に吹く風の

夕顔や飾らぬ父と母がゐて

唐黍の腰の辺りをへし折りぬ

哀れなるふくべの腰のくびれさへ


画像


「家」

夜の向かうに見へぬ星あり鉦叩

地蔵盆まだいとけなき手を合はせ

秋風に家を失くした顔をして

あほらしやコスモスゆれてなほさらに

怒らせてしまつた秋の昼下がり

鬼灯や顔は先刻暮れてをり

秘密めく風船葛筺なして

儚むにほどよき風の色ならむ

秋遍路国を追はれゆくやうに

置いて来し妻が気になる稲光

その日暮らしの肘枕して涼新た




















テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
よろこびに 頭を垂れる 人ありて
清水流るる 聲や聴こゆ
京の藪内
2015/08/25 14:51

コメントする help

ニックネーム
本 文
生老病死に寄り添う 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる