再生への旅

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zoom RSS 相承・密なる領域

<<   作成日時 : 2015/10/11 17:13   >>

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死ぬる世をこれ見よがしに唐辛子 玉宗

曹洞宗大本山總持寺における太祖700年、二祖650年大遠忌のテーマは「相承」である。

相承 ―大いなる足音がきこえますか―

瑩山禅師より仏さまの教えを受け継いだ峨山禅師は、總持寺の基礎を築かれました。さらにその教えは、弟子達をはじめ代々の祖師方に受け継がれ広まっていきました。そうした大いなる流れの上に私たちが存在しているのです。私たちは、その教えをさらに未来に向けて伝えていかなければなりません。

大いなる足音とは、峨山禅師や歴代祖師の遺した偉大な足跡や教えはもとよりですが、私たちが伝えるべき未来への足音をも意味します。その足音に耳を澄ますということは、過去に学び、より良き未来を築くことなのです。大遠忌を良縁として、皆様のこころにも”大いなる足音”が響き渡らんことを念願いたします。


大いなる足音とはなんであるか?
結論を言えば、それは開山を初めとする宗門の源流への傾聴に止まらず今ここに生きるわれわれ一人ひとりの脚下照顧を促すものでなければならんだろう。単に先祖をありがたがるといったようなめでたい話で終ってはならない。仏法は組織のためにあるのではないというきわめて当たり前の実相を転倒してはならないのである。いのち限りの自己に目覚める。そのような個人のこころざしの集合体に過ぎぬことを潔しとし、幸いとし、社会の和合として生きていく。いわば、人生のバックボーン、私の生きる支柱といったものを戴いているということ。


ところで、宗門には「嗣法」という謂わば「免許皆伝」の仏弟子の儀式がある。どの世界でもそうであるように、仏道も又、師匠という「覿面」「目の当たり」の越えるべくして、敬すべき具体的存在が必要不可欠であることは言うまでもない。本を読んで悟ったとか、師匠なくして仏法を会得したとか、ひとりで済ますことが出来たとか、元々そのような領域の話しではない。歴史上のお釈迦さまから始まって、今に至るまで、一対一のいのちの感応が前提である。
 
仏法は自他を通貫して普遍であるが、その普遍はまた一人一人に示現、体現されている。師匠は弟子を得て嗣法の威儀を施し、弟子は師匠を得て嗣法の面目を戴く。師匠も弟子の嗣法によって自己の面目を更新するのである。いのちの在り様にあたらしいものを付け加えるのではない。「面授」という「感応道交」の世界に目覚めるのである。元来汚れていない自己のいのちの端的を授け、戴く。いのちといのちの交感。

仏道は独善の世界ではない。偶像を廃した自己確立の道程である。妄想に堕せず、真に自己を確立したものこそが仏法を引き継ぎ、引受けるに値するだろう。そのためにも、弟子は師匠という鏡の証明を経なければならない。ひとりよがり、孤立し、自足し、何ものも映さない悟りといったものは有り得ない。
「嗣法・面授」それは厳かで、侵し難く、そして潤いのある世界なのである。

師匠と弟子が面と向かい合い、一対一の嫡々の世界がそこにある。なければならない。加行一週間の間、毎日百拝以上のお拝をし、幾つかの血脈を浄書する。代々伝えられてきた法系の作法や秘儀、口伝、秘物を授ける。私が先代から受け継いだものをそのまま弟子へと渡してゆく。「室内の密行」それは秘密の密ではない。親密の密であるというのが宗門の眼目である。「

自己に親しく、他己に親しく、生に親しく、死に親しく、法に親しく、諸行無常に親しく、身心脱落に親しい世界。道は無窮である。無窮であるがゆえに今を蔑ろにはできないのである。今、成仏できなくては未来永劫に成仏できはしないだろう。「仏法」を受け入れたから「嗣法」するのではない。元来「仏法の中の自己」である。「嗣ぐ、嗣がせる、嗣がない」といった次元の話ではない。敢えて言えば「自己が自己に嗣ぐ」のである。密なる領域である所以だ。

仏道とは何か?仏弟子とは何か?どう生きていけばいいのか?人生の一大事とは何か?
どのような思惑であるにしろ仏縁を結んだということは、究極の自己責任の世界へ踏み込んだのである。それは最初にして究極の「舎身行」である。人生で初めての「初発心」である。自己に合い初めたのである。信仰とはそれを成し遂げて今にあるということだ。仏道は初心の中の弁道に収まると言って過言ではない。師匠である私がこれからも何度でも弟子に云って聞かせなければならないのは当に、「本証妙修」たるこの初心のありようなのだ。年季や悟りなど、放っておいても勝手に附いて行くだろう。それはまた迷いの元ともなるかもしれない。初心のただ中に身を隠す、不染汚の行。それこそが何ものにも替えがたく尊い。その困難さには初学も晩学もない。
 
若さとは純粋にして、無知であり、無垢であり、傷付きやすいものであり、理想を先立てたがり、正義をかざしたがり、視野の狭さがあり、柔軟でありつつ、清濁併せのむことを潔しとせず、背伸びをしたがり、等々、つまり可能性の渦、混沌そのものであるということだ。私はそれを笑っているのではない。むしろ痛ましいと思うほどに羨ましいのである。そこには怖ろしいほどの未来がある。乗り越えるべき諸行無常がある。

人間が独り立ちするとは如何にも難儀な旅であると思わずにはいられない。人生とは修行しつつ人間勉強をしていることである。人は不思議なことに人間が如何なるものであるかを知らないままに生きている。その目は外ばかり見ている。外への批判や区別の眼差しが翻って自己へ向けられることなくして、人間性の深みなど期待も出来ない。まして、仏道はそのような人間性を越えたところをねらっているのである。人間性に左右されない、いのちぶれない生き方、自己決着、戴き方、施し方の謂いなのである。人間界隈の分別の地平を行ったり来たりしている暇などありはしないのだ。仏道は競争ではない。宗教なのである。

いずれにしても紆余曲折の人生である。自己の可能性をあきらめない事だ。自己を見捨てない事だ。それこそが人が諸行無常の人生から学ぶ真髄であると言ってもよい。仏弟子として生きていく覚悟があるのなら、自己を見捨てることをしないことになんの遠慮もいらない。仏道と云う自得の世界で見えて来るものが必ずある。伝わるものがある。受けるものがある。捨てるものがある。大いなる脚下の足音がある。

「相承」の精神もその真相に添ったものである筈だ。



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市堀玉宗第三句集『安居抄六千句』

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「夢」

夢に生きたる二人の障子貼りにけり

学び舎の夢はいづこの蔦紅葉

夢湛へ鹿の眸の濡れてをり

暁の夢のつづきや鳥渡る

孕みたる夢見ごこちや鹿ねまる

夢覚めぬまゝに老いたる木の実かな

秋風や夢もうつつもまぼろしの

わが夢の色褪せてゆく紅葉かな

正夢の如く覚めたる芒かな

同じ夢に生きて花野に遊びけり

夢を失くせし蜻蛉の空のあるばかり



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「飯粒」

小鳥来るやがてひとりになる二人

てのひらはなんだか淋しけふ寒露

飯粒が泣いてよろこぶ秋の空

梯子して銀河へ帰るつもりらし

食ひ足りて明日は海に入る雀

蛤にならむと雀砂を噛み

稲妻や夜の向かうに夜があり

人の佳い叔母の手になる茸飯

余生なほ松茸狩りに名を馳せて

底抜けの空の碧さへもみづれる

愛を説く男に露のにほひして

売れぬ詩をかゝへて歩くいぼむしり



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「夜のにほひ」

めぐり合ひし汝が手にのする木の実かな

生きてあれば火の恋しさも懐かしき

淋しらの夜の寒みを抱き合へる

蟷螂が明日をも知れぬ顔をして

傷舐むる夜のにほひや狸汁

穴に入る前に典座をうろつきぬ

秋刀魚焼くそれで赦してくれるなら

野に出でて秋風すさぶばかりなり

且つ散りて梢さざめく日なりけり

龍田姫裾を捲れば色なして

涙目にひときはひかる石蕗の花











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