再生への旅

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zoom RSS 無宗教という束縛

<<   作成日時 : 2015/10/21 16:35   >>

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且つ散りて梢さざめく日なりけり 玉宗

「宗教」とは「人生の拠り所の根本」であるとして話を進める。日本には「無宗教」と自認する人が多いようであるが正確なところいったいどのくらいの割合なのであろう。宗派や教義や教団などに拘らない、或いは無視した「日本宗」とも言える日本独特の、神仏混合、神仏融合、八百万的自然崇拝がある。セクト化や教団化以前の、人生や自然への曖昧にして、混沌なる、名のつく以前の畏怖のようなものが人間にはあるだろう。それをしも「無宗教」と呼ぶことに私などは躊躇するものがある。所謂「無宗教」と公言して憚らない日本人にしたところで「宗教心」のない人などいない筈である。根っからの「無宗教人」がいるとしたら、それは殆ど人間ではないと言ってよかろう。

 ここで問題にしたい「無宗教人」とは、世間的価値観の中でしか生きていないような人間のことである。現実にはそのような人を見ることが少なくない。というより私自身の中に、世間的物差しで全てを計ろうとする狭い根性が巣食っている。貧富などの二見の価値判断から離れられない、欲望の奴隷の如き私がいる。欲望に束縛されている私がいる。それはどう考えても「仏道」ではない。「出世間」ではない。「宗教」に束縛されないで自由に生きたいといったようなことは竟に妄想である。欲望に束縛されること、それを「無宗教」とは言うのである。すくなくとも私にとってはそういうことである。曲がりなりにも、お坊さんであることで人並な人間でいられるという私の認識は、徒や僻み根性や厭味から出た言葉ではない。

「無宗教」という「自由」は私にとって「地獄」や「監獄」に等しいものである。「仏道」という足かせ、手かせ、方向性、生きる姿勢があることで私は自在でいられる。一体の只中の一部であるが故の自在さ。それをしも「束縛・不自由」と決めてかかるのであれば、ついに人間が安心して生きる場所はなくなるであろう。軽々に「私は無宗教です」と言わないがよろしい所以である。それは神仏と共に生きることは勿論、人として生きることを否定しているに等しいのではなかろうか。現代人は自然を畏れているようで、その実際は自然を喰いものにし、弄りものにしているのが現実ではないのか。「無宗教」を憚らない人間の所業に見えてしようがない。

先日テレビを見ていたらバラエティー討論といった感じの番組の中で「宗教は阿片だ!」と叫んだパネラーがいた。そのようなことを得々と言挙げする識者がまだいることに少なからず驚いたことだった。「阿片」にも「覚醒」の効能があるらしいが、毒になるか薬になるかは病人次第だ。そのような心配よりなにより、「禅」は「宗教」をも内包しているのは確かだが、「阿片的要素」と対極にあると私などは認識している。

オーム真理教事件以前から「宗教法人」に対する世間の風が偏向し始めていたが、あれは一つの契機となったことは否めないだろう。あの事件はなんだったのかなどと今更検討するまでもない。そのようなことより、。「宗教離れ」「無宗教葬儀」「檀家制度の崩壊」等といった昨今の社会現象、漂流する「宗教」の混迷ぶりと慌ただしさが顕在化してきている現代、日本人の「宗教」という言葉から受け取る「イメージの異常さ」或いは「異常なイメージ」の検討の方が余程これからの日本にとって有益ではなかろうかなどと思ったりする。「宗教」という「言葉」「イメージ」が一人歩きしている。迷走している。いずれ「宗教」という言葉は死語になるのではないか。「言葉の末期症状」の様相を呈している。

〈宗教とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづ教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。 『ウィキペディア・フリー百科事典』より〉
「宗教とは何か」という問いに対して、宗教者、哲学者、宗教学者などによって非常に多数の宗教の定義が試みられてきたとされ、「宗教の定義は宗教学者の数ほどもある」といわれるといった今更のような指摘も、何も語っていないに等しいとも言える。「実存」が「定義」とか「本質」に先行するのは「宗教」の於いても例外ではないからだ。見落とされがちなのは「宗教」が「観念体系」であるという指摘だ。「宗教」が観念の領域の話であるなら、「禅・仏道」は「宗教」ではないと申し上げたい。命生きている事実の当所は「観念」だけで済まされるものではない。

そういう意味では以下の指摘は妥当なものであり、且つ建設的な条件を示唆している。

〈日本語の「宗教」という語は、幕末期にReligionの訳語が必要となって、今でいう「宗教」一般をさす語として採用され、明治初期に広まったとされている。原語のほうの英語 Religion はラテン語のreligioから派生したものである。religioは「ふたたび」という意味の接頭辞reと「結びつける」という意味のligareの組み合わせであり、「再び結びつける」という意味で、そこから、神と人を再び結びつけること、と理解されていた。 『ウィキペディア・フリー百科事典』より〉

「神と人を再び結びつける」とは「神の手元を離れた人間」がいるということだ。「自己を見失った自己がいる」ということだ。「繋がりを見失った自己」がいるということだ。「孤独な自己」がいるということだ。現代人は自分の孤独さを本当に知っているのだろうかと言いたい。私は以前から「出家は再生である」と言い張って来たが「出家」を「宗教」に換えてもいい。否、もっと直截に「人生」としてもいい。否、もっと事実に即して云えば「いのち生きること」と換言してもいい。「実存」と言ってもいい。「私」といってもいい。「諸行無常」と言ってもいい。「今」と言ってもいい。「宗教」と云わなければならない理由が私にはない。観念だけが独り歩きしているのではない。いのちは常に自己更新をし続けている、世界と不即不離の今の事実である。「いのち」は「再生力そのもの」である。「宗教」が「阿片」なのではない。自己を誤魔化している自分がいるのだ。「諸行無常」が「阿片」なのではない。「諸行無常」に目を瞑ろうとしている弱い自分がいるのだ。絶対的に孤独な自己をどう始末し、決着をつけるのかと問われている。「宗教」という「言葉」が死語になる日が来るかもしれない。しかし、自己の命を生きるのは自己であるという厳然たる事実は免れられないことを肝に銘じていなければならない。

私は「無宗教です」と公言するのは勝手であるが、「無宗教」に束縛されてはいないかと立ち止まることも決して無駄ではあるまい。


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「めでたさの」

老いにけり菊の香ほどのめでたさの

ポケットの中は手探り木の実落つ

鷹渡る岬と聞きしばかりなり

鐘撞きにもどる鴉や木守柿

旅の途の二人の暮らし障子貼る

訳ありの林檎と知りて貰ひけり

妻が膝に耳を預ける虫の夜

蓮は実につれなき風の吹くばかり

初ものの大根を寺へ捨てに来る

薩摩芋未熟児ほどの大きさの

穭田に取り残されて鬼となる

情け深き顔して秋もたけなはに

山祇に深入りしては薬掘る

秋の暮わが身ながらも色褪せて



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「切り株」

初ものの大根引かせてもらひけり

づかづかと来て鬼柚子を不思議がる

柚子一つくれて立ち去る女かな

帰り花褒美のごとく見たるのみ

青首のまだ葉影なる大根かな

嫌はれてセイタカアワダチソウとして生きる

生きながら土塊となる秋の風

寄り添へば影うすくなる紫苑かな

柿吊るす一向宗の顔をして

切り株のしみじみとある秋日影

手応へのある白菜の首を切る













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市堀玉宗第三句集『安居抄六千句』

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