再生への旅

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zoom RSS 今日の妄想・生前葬という生き方

<<   作成日時 : 2015/11/02 18:22   >>

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冬安居控へし山のしづけさよ 玉宗


先日、NHK総合テレビを見ていたら、小椋佳出ていた。若いころに小椋の唄を好んで聞いていた時期もあり、懐かしさに暫く見入っていたのであるが、その発言に些かならず耳を疑い、そして失望し、果てに落胆してしまった。挙句に、

「へ〜、小椋佳ってこんな人だったっけ。なんだ、意外とばかなんだね。」

などといったことを口走って、一緒にテレビを見ていた夫人の顰蹙を買い、軽蔑され、ダメだしを食らった。

「お父さんは、また、いったい何様のつもりなんだかね!」

彼が「生前葬」をしたということは知っていた。それはまあ、やりたいようにすればいいことで大した問題ではない。自分の死後に近親者や関係者への配慮のなせるところなのであろう。見方を替えれば、死後になにかと問題が出てくるような生き方をしていることを公開しているようなもんだが、生きている間はお互いに世話になりあい、迷惑を替え合ってその日を暮して、生き延びているのが人間社会の実相ではないかと思っているのだが、死後の迷惑を云々する今の社会の風潮には少なからず違和感がぬぐえないでいることは以前にも記事にした通りであはある。

そこには「死」も「生」も自分持ちのものであるという大いなる勘違いがあるのではないかな。彼の言うには、終活として必要のない財産を三部の一ほど捨てたらしい。どのような捨て方なのか正確には言わなかったが、まあ、処分したのであろう。身軽になるという終活の趣旨を論うつもりはない。「捨」という「行」は仏道の要諦でもあり、「捨」のあり様は千差万別、煩悩が数え切れないように、「捨」の態様もまた数え切れない。凝り固まったしろものではないことを彼はご存知だろうか。近いうちにまた生前一周忌だかなんだかを企画しているようでもあるが、それを聞いてまた私などは、笑い話にしては些か胡乱臭ささえ湧くのである。

音楽家としての生前一周忌コンサートでもするのであろう。それは無料なんだろうか。香典としてチケット販売をするんだろうか。法事も葬儀も本来、遺族のなす死者とのいのちのつながりに目覚め、今に目覚める一つのかたちであり、又、死者に関わった社会への報恩感謝のかたちでもある。「生前葬」そこには生きているうちに「死」を先取りに、「死」をなきものにしようとすることにほかならないのではないかな。百歩譲って、自己の死をなかったことにするのはいい。しかし、そこには他者の「死」さえ蔑ろにしていることに他ならない落とし穴があるんじゃないかな。それはとりもなおさず、自己や他者の「生」さえ弄んでいることに他ならないじゃないのかな。そんなことを心配したりする。

そのような心根もなんだが、私が今回、もっとも小椋佳の発言で気に触ったのは「悟り」云々に関してである。
彼は凡そ次のようなことを滔々と、そして確信を持って述べていた。

「悟りなどというものはありません。あんなもの真っ赤な嘘です。人間いくつになっても煩悩がありますし、あるからこそ人間と言えるのじゃありませんかね。」

だから「生前葬」をしていると彼は言いたかったのだろうか。戒名もお坊さんの葬儀も必要としていないことを憚ることなく公言していた。

「ああ、小椋佳もこんな人間だったんだ」

というのが、私の正直な感想である。
思えば、小椋の唄に癒された私の青春時代ではある。そこには確か「自分というどうしようもない存在、或いは、存在のどうしようもなさ」といったものへの憧憬、訣別、絶望、覚醒、呼びかけ、沈潜があったようの思える。ひらたくいえば自己へのこだわりであり、自己を裏切ようとする世界への切り口があった。見知らぬ自己への展望、まだみぬ世界への誠実さがあった。自分の言葉があった。音楽という自己の道しるべがあった。もうひとつの世界があった。信仰があった。彼は彼なりの信仰を持って現実を生きてきて今があるのだろう。それはいうまでもないことだ。

それにしても、とういうか、であれば尚更のこと小椋はもっと謙虚にものを言うべきであった。彼なりの信仰とは、ことばを替えて言えば彼なりの「悟り」ということだ。彼なりの悟り方で人生を学んで今にあるのである。「悟り」といえば「死木」の如く血も涙もなく、感情もなく、煩悩に左右されない境地というのが一般の常識なのであろうし、小椋もそのような常識の範囲の中で自己の悟りを滔々と展開し、述べているのには違いない。

宗教の話だけに限らんかもしれんが、常識は尊重に値するものではあるが、常識の限界といったものもあろう。「悟り」が「死木」のごときものであることは事実である。「煩悩」の火を消すことが宗教の命題であることからすれば当然のことである。しかし、「死木」が花を咲かせ、「石女」が舞うことができるのもまた「悟り」の世界の真骨頂でもあることを知っているのだろうか。煩悩の火が消えたあとの解脱といったようなもの。そのような自由自在のいのちのありようから見れば、「生前葬」も「無宗教」も「無葬儀」も「戒名いらない」も「送骨」も「お安いお経サービス」も「寺院消滅」も屁のような代物である。

私は今でも小椋佳の唄は好きである。若い、うぶなこころを揺さぶった彼の魂の旋律を思うとき、彼もたま、上のような発言をすることが「常識」になってゆくことへの失望、そしてそれとともに現代社会の宗教への偏見、その根の深さを思わずにいられないのが悔しかったのである。



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「旅の朝」

 菊の香やさながら死出のあさぼらけ

 履き替ふる旅の鼻緒の露けしや

 吹き溜まる落葉に雨や旅の朝

 秋惜しむ旅の初めや湖西線

 長月も晦日の旅となりにけり

 見ごろなら今が盛りや龍田姫

 めぐり来る忌日回り来る秋冷

 国を追はれし旅の鞄や秋時雨

 旅の途の懐寒き朝かな

 旅をする妻との縁もみづれる






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「この道」

面影の旅やまゝこのしりぬぐひ

秋の雲ひろがりひろがり湖の上

聖みなこの道をゆく木の実かな

湖を吹く風見えてゐてそぞろ寒

余呉過ぎて平らかとなる秋の風

もみづれる峡の底ゆく塩の道

初しぐれ都を沖とせし国の

漣し秋風渡る淡海かな

鯖街道こゝにも秋の遍路宿

茶の花の日向日陰やうつむきて

人情と今津の柿の固さかな

猿も鳴く朽木の宿の栗おこわ

この道を行けば大原露時雨

日翳れば俄かに寒き肌かな

とこしなへ比叡は霧の湧くところ

時雨雲裂いて日矢差す竹生島

露けさに眠る湖畔の宿りかな

みちのべの菊を手向けて旅の果て

正夢の如く綿虫見失ひ

遥かなる都へ落つる釣瓶かな


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「過ぎる」

新蕎麦を食ふには苦労かけすぎて

熱燗や下弦の月の潤むまで

据えかぬる腹の虫あり火を恋へる

秋惜しむまだ見ぬ夢の旅の途の

うつゝなる雨の音にも身に入みて

生き死にの帷はなやぐ菊膾

月の面を歩むさみしさ秋の蝶

零余子飯食ふには嘘をつき過ぎて

秋寂びて目瞑るほかはなかりけり

米を研ぐ音にも冬の隣りして

綿虫や頭を使ひ過ぎた日の

滅多には笑はぬ父が焚火せる

とろゝ汁正直過ぎる父とゐて

秋深き隣りへ回覧板廻す



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市堀玉宗第三句集『安居抄六千句』

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