再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 今日の以心伝心・父という不在

<<   作成日時 : 2016/04/20 19:58   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


春昼の臍あることの憂かりけり 玉宗

NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」を時々見ている。
主人公の父親が早々に姿を消してドラマが続いている訳だが、世に親が無くても子は育つという。親が無くてもと云う場合、大概の人は「父親」をイメージするのではなかろうか。現実には両親なしということもあるだるが、片親で育ったというときに、母親の手で育てられたというのが多いのではないかと、私なんかは偏見、或いは思い込みがある。それには母親の方が長生きという認識も左右しているのだろう。私は両親の中で成人まで育ったし、故郷で生きてはいたのであるが。

そうではあるが、「父親」という存在が如何にも影の薄いものであることを今更ながらに思い出されるし、今現在の私自身の父としての存在感もまた、「不在」をその本質としているが如き有り様である。亭主元気で留守が良いとも言われる。父は元気で留守が良い。妻にとっても、子どもにとってもまるで「なくてはならない不在」といった観がある。

大黒柱は黙々と影の如く、ある如く、なき如く存在する。その存在感が醸し出す空気、雰囲気、が家族の安心に寄与するのだろう。大黒柱がふらついている様では心もとないだろうし、出しゃばり過ぎ、かまい過ぎるというのも妻子の自立を妨げる障碍になる。家族と雖も一期一会の尽力であり、支え合いであり、関わり合いである。今を限りと真を尽くすことを試されているのには違いないのだ。

血で繋がり、こころで繋がる家族。そこには愛憎もあれば、断絶もある。それは言うまでもなく社会と云う人間存在の条件を学ぶ最初で最後の場である。諸行無常の現実を生きてゆく脚力、忍耐力、応用力を身につけ心に刻む無償の学び舎でもあろうか。だれも親のような眼差しで子供をみてはくれない。だれも子のような眼差しで親を見てはくれない。親が子供の全てを受け入れようとするように、子も又親のすべてを受け入れようともがいているだろう。

できそこないの父は妻子に要らぬ荷物を背負わせぬようにしてやりたいとは思っているのである。なくてはならない不在として寄り添ってあげたい。祈り続けてやりたい。それが父の生きる力ともなる。父も又生涯をかけて父を学んでいるのである。不在、それは沖をゆく父という存在のアリバイ証明なのかもしれない。


画像


「一人」

一人では萎えてしまゐぬチューリップ

たんぽぽや放っておいてくれないか

ふるさとの情け深さよ田螺鳴く

寝たきりの母には聞こゆ遠雪崩

遺されしものみな仰ぐさくらかな

神といふ不在がいつも朧なる

さよならも言へぬ訣れよ蜷の道

陽炎の向かうへ消ゆるひとりづつ

逃水を追うて捨てたる故山かな

ぶらんこやひとりしづかに傷ついて




画像


「不在」

父といふ蜷の道へと消えしもの

てのひらや春の夢より覚めてなほ

つばくらや山河破れしふるさとの

掃き寄せし花屑うつろなるかろさ

畑打の母見えてきて遠かりき

空腹となにかがちがふ花の冷え

山里のこれより明くる雉の声

嫁がざる姉が遍路へ行きたがり

暇さうだからと雉笛をあてがわれ

ぶらんこやいつもだれかが不在なる



画像


「親子」

親離れ子離れ月もおぼろなる

蜷の道ついてくるなといふ風に

筍飯たひらげ母を喜ばす

陽炎や父が帰れば帰つたで

野遊びの子を見てこころ足りにけり

父子草母子草とて埒もなく

大人になる肉の苛立ち柳絮飛ぶ

たらの芽を掻いては空を淋しうす

花冷の九穴に毛のありにけり

弔ひの髭剃りゐたる穀雨かな

一つづつ影を置きたる落椿

田螺鳴く水田の月や遁走す

淋しげな顔して独活を好みけり

寒さうなふぐりぶらさげ熊谷草

夢追うて桜蘂降る町に生き












テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
今日の以心伝心・父という不在 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる