再生への旅

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<<   作成日時 : 2016/04/23 16:02   >>

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囀りや空に溺れてゐるらしく 玉宗


能登半島地震に被災して実感として強く気付かされたことがいくつかある。
災害にあうことも「縁」であるということ。諸行無常の在り様を端的に学んだという事。それらは私の都合でどうにかなったり、ならなかったりするようなものではない。「縁」は私の恣意で選べるものではないという当たり前のいのちの現実を知らされた。選べるものではないからこそそれは人生の宝なのであり、その「宝」を「どう活かすか」といったことが私に試されている。

生きるとは「縁を生きる」ことであり、それこそが「生きる意味・意義」の一つなのである。
「仏弟子と何か?お寺と何か?」といったことに関して改めた考えさせられた契機であったということ。ものとこころ。生きるために喰う・喰う為に生きる。どちらも真実である。人間は志しなく生きていけるものでもないし、志だけが先行して生きているわけでもない。

危うく、かけがえのない命をどんな人生に賭けるのかが銘々に試されていることはまぎれもない事実であろう。これもまた人それぞれの「縁」としか言われない「旅立ち・飛躍」といったものだ。私が仏弟子を選択したのも、つまりそういうことである。そんな私が「お寺」を失くしたとはどういうことだったのか?「お寺を再建する」とはどんな意味があったのか? 

答えのないままに、始めた再建托鉢。その日々の「行」そのものに気づかされる。「托鉢行」という「三輪空寂」の「事実・今」の中に「仏弟子であることの本質」があるのであり、「仏法の全体」があるのだと云う事。そこには「今の事実に掬われている私」がいる。「今の事実に足りている私の命」がある。「仏道」とはつまり、今のいのちに目覚め、戴き、尽くすということであってみれば、「お寺」という「伽藍・かたち」が先にあって、「道・行」が備わるのではないということ。「ものとここころ」はつねに「同時」である。今、ここが、道の全体であるのだと云う事。

今、ここに、成道し、修証し、涅槃し、諸行無常し去る。自己を担い切るということ。お寺の再建は私自身の再建であった。それを忘れてはならない。私の日常とは日々自己更新。自己再生のことに他ならない。妄想せず、かまえることなく、雲の心、水の意のままに、貪らず、あきらめず、ありのままに生きていこう。





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「泥」

臍の緒の行方もしれずあたたかし

敷島の泥の国なる燕かな

朝寝してそろそろ泥も乾くころ

泥つきしまゝに干されし若布かな

平手打ちされし淋しさ花疲れ

泥こねて泥をなだめし代田かな

泥抜けて来たりし貌や鯥五郎

菜の花の陰に湛へし水田かな

春昼の臍あることの憂かりけり

代掻いてそのまゝ泥の眠りかな

遍路宿願つてもなき雨となり

ずぶ濡れの仏が通る象に乗り

花祭りだつたやうだねさっきまで

寺町の通りがかりの甘茶寺



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「さらさら」

水芭蕉夢は高嶺の星となり

菜の花や逃げも隠れもできぬ日の

雨上がり外に出てみれば花すもも

姉の子をもらひに来る諸葛菜

麦青む明日は出て行くふるさとの

豌豆の花の白さようれしさよ

まぎれなくそこはかとなく

夕さりし風にさざ波立つ代田

光りつゝ風はさらさら音立てゝ

花韮の嗅いでごらんといふ風に

泣けるだけ泣いたる著莪の花かとも



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「はじまる」

若楓風の囁きはじまりぬ

囀るに願つてもなき日なりけり

うれしくてならぬと草を引きはじむ

楽しくてならぬと蝶の来てをりぬ

チューリップ些かひらきすぎかとも

泣いてばかりをれぬと畦を塗りはじむ

怒る気になれず耕しはじめけり

蜂唸るほかは音なき昼下がり

すぐそこに鳴く鶯の老いにけり

もうだれも追ひかけてこず陽炎へる

薔薇の芽や愈々日差し容赦なく










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