再生への旅

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<<   作成日時 : 2016/08/20 15:02   >>

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露草や目開いてゐて見えぬもの 玉宗


この年になって、時々何かにつけて「哀れだなあ〜」と呟いている自分に気づいている。
「もののあはれは秋こそまされ」という古人の言葉があるが、秋になると俄かにその感が強くなる。人間とは本人が思い込んでいるほどには自力で生きている訳ではない。様々な巡り合わせや出会い別れ、愛憎等々、人生万般の出来事は私が意図したようにも、私の都合通りにも展開しないことの方が多い。そして、時々痛い目に逢ったり、後悔させられたり、慨嘆したりする破目になる。自力の及ばない領域が確かにあって、挙句の果てに「あはれ、なんという人間らしさよ」、ということになるわけである。

「あはれ」などと解った風な物言いをしているが、「もののあはれ」とは、平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つだという。折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や哀愁。日常からかけ離れた物事に出会った時に生ずる、心の底から湧きでる何とも言いがたい感情というのが一般的解釈である。又、本居宣長先生の「もののあはれ論」は夙に知られているところである。

「あはれ」という言葉は、宣長によれば、「深く心に感ずる辞(ことば)」であり、後の世に、ただ悲しいことをのみ云って、「哀」という字を当てているが、「哀」はただ「あはれ」の中の一つであって、「あはれ」は「哀」の意味には限らない。そして、「あはれ」は、元は、うれしい時、悲しい時、面白い時、腹立たしい時、恐ろしい時、憎い時、恋しい時、いとしい時など、そのほか何事であっても、深く心に感じるあまり、思わず「ああー」と、言葉にもならず、発せられる「嘆息の辞」であるとしている。

つまり簡単にいえば、「もののあはれを知る」とは、様々な事物に触れて、その心と私の「情」が共鳴すること、つまり、ものごとの本質を感じる心ということだろうか。国文学者であるドナルド・キーンさんは「もののあはれ」を“a sensitivity to things”と訳したという。「情感」もまた命のありのままの様子である。人間界で生きるということは、お坊さんといえども「情感」を抜きにしては殺風景極まりないであろう。ともすれば禅僧は木で鼻を括ったような存在者とみられているのかもしれない。

然し、血も涙も心に通うのが人間というものであろう。仏弟子も、そのような娑婆世界の住人でもあることは間違いない。云うまでもなく、「情感」に左右され、流され掉さし、流転輪廻し、業を重ねるのが間違いの元なのであり、人として生きながら、その過剰な人間性に振り回されない生き方を忘れてはならないのだろう。そのような危うい、素にして大いなる命への慎ましさが求められているのではなかろうか。それも又、仏弟子の「戒」の本質であろうと思っている。



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「風の瀬」

朝に夕に老ゆるふるさと芋の露

露けさのほとけの森に目覚めけり

めくるめく朝の始まる木槿かな

風の瀬となりてコスモス花浮かべ

風筋に狎れの果てなる蓼の花

露草の露に染まりし色に出て

大山を鳴動させてつづれさせ

けふからは秋の昼寝ぞこころして

稲喰うて重たくなりし雀かな

丑三つの夢は破れず稲光

秋ひとり踏んだり蹴ったりしてゆきぬ

水落ちて愈々空の深まりぬ

夕月に声を落として鷺のゆく

懺悔して虫の声聞く夜なりけり

葛の花月天心へ登りつめ



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「朝に夕に」

敷島の月に眠れる稲穂かな

朝に夕に月を見送る草の花

あかつきのよそよそしさを帰るなり

風の音風のいろにも秋めいて

背負はれて見たる空あり赤蜻蛉

蜻蛉の風に流れのありにけり

水引の花といふには覚束な

秋の風わがもの貌に来たりけり

盆過ぎの海怖ろしや風立ぬ

秋の雲ひろがりひろがり傷癒えよ

空をゆく蜻蛉に翳のなかりけり

昼うすき月に情夫と成りさがり

ふるさとの風を手玉にねこじやらし

生きながら磔となる鵙の贄

青鷺に少し離れて白鷺が

夕月を背負うて父の戻りけり

龍淵に潜み火宅に灯点れり

沢蟹の手を振る月の浦かけて

まぐはひの夜やすさまじき月あかり

見えてゐる月の遠くてをかしかりけり



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「さあ大変」

小鳥来てひっくり返す砂時計

鶏頭の凡その数としてありぬ

うらなりも仏となれる糸瓜かな

村一つ影に入れたり秋の雲

一昨日の南瓜の煮つけ今日も喰ひ

栗落ちて坂を転がるさあ大変

露草やまなこぱっちり見開いて

秋蝶は森の木漏れ日追へば逃げ

おみなもを付けてしがなき父帰る

みさかいのなき恋をして藪枯らし

而してつくつく法師鳴くばかり









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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
こんにちは。

心を動かされない修行の中でも、
情感のある句を作られる、
その両方が素敵だなと思います。

感受性を失わず、
日々を過ごしていければ良いなと思いました。
G
2016/08/22 15:57

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