再生への旅

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zoom RSS 本来の面目に生きる

<<   作成日時 : 2016/09/01 18:59   >>

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鶏頭の凡その数としてありぬ 玉宗



「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり」 


これは道元禅師の傘松道詠歌の一つで、「本来面目」と題されたものである。故・川端康成がノーベル賞授賞式での講演で紹介したそうだ。川端にはこの歌に込められた魂こそが日本文化・文学の面目だという矜持があったのだろうか。今や日本では神棚や仏壇のある家庭が全体の半分にも満たないという。明治に来日したある外国人が、日本ではごく普通の家庭でもみな教会を抱えていると言ったらしいが、嘗ては、仏壇や神棚が家の中心的存在としてあった。現代に於いてそれはものやお金や情報に取って代わったという識者がいる。人生の価値、人間の値打ちが神仏からほど遠いものに取って代わったということはどいういうことなのであるか。点検してみるのも無駄ではあるまい。

「心地開明」という言葉がある。人の心を田地に譬えている。心は田地のように、放っておくと草も群生する。経験知から云っても、私という人間は放っておくと煩悩や苦悩ばかりで情けない代物に成り下がることは間違いない。だからこそ、煩悩まみれの心地に菩提の種を捲いて、耕し続ける意義があるのだと。そこには本来の面目に生きる命への目覚めが期待されているのであろう。

いのちを汚すとは如何なることか。煩悩まみれとはどのような仕業なのであるか。存在すること自体、本来、何物にも染まらない「素なるもの、ありのままなるもの」であり、ならばこそ、私の今の生き方が人生の意義を創造するし、台無しにもする。信仰とはいのち本来の面目へ還ることであり、新しく何かを付け加えたり強為することではなかろう。いのち本来の面目にどのような姿勢で私が生きたかで、私という人間の値打ちが決まることを潔しとしなければならない。菩提の種を播くとは、存在への目覚め、無為が問われているということだ。作為ではない。

朝日や夕日を拝み、自然に手を合わせ畏敬し、仏壇や神棚に頭を垂れ手を合わせる。それはつまり自己の、いのちへ手を合わせる事であり、自己本来の面目への帰依であり、祈りなのであるということ。無為自然。欲望を超えた彼岸といったものが確かにある。諸行無常の、日々の暮らしの軸となるものがないという現代人。それは自己の人生の価値や命の値打ち、絶対性を見出せないでいることを証明している。

私は私が思い込むほどつまらないものでもないし、たいそうなものでもない。あるがまま。いつの間にやら自己の内外に背負いきれぬほどのものに縛られている現代人。無宗教を公言して憚らない現代人。それは帰るべき本来の面目なる自己を見失っていることを公言していることにほかならないのではないかな。無宗教という迷信に右往左往しているように見えなくもない。

喧騒なる現代。本来の面目、帰るべき自己をどこかに忘れてきてしまったらしい。



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「山河」

葛咲くや男に下野のこころあり

秋風の月に破れし海の家

鬼灯やむかし家族のありにけり

貧しさの月にまみゆる米の虫

孤絶なる山河に鷹の別れかな

眼帯の空はうすうす高かりき

目薬を朝顔ほどの高さより

鯛焼の餡子に負ける秋思かな

人去りし後のしづけさ鉦叩

蟷螂が国を失くした貌をして

鴨の子の列なしてゆく向かう側

台風のしんがりにゐて遊ぶなり



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「野良」

われなくにほどよき風の色ならむ

雨雲を裂いて日矢さす晩稲かな

合歓は実にそろそろ稲架を組むころの

露舐めてまたもあてなく野良となる

秋風と土手を歩めりどこまでも

海山に風揉みあへる八月尽

実むらさきほどの薬を母が呑む

用足しに出れば秋風蓼の花

風も過ぎ雨も過ぎたる野菊かな

鶏頭の花といふには無骨なる

身に添ふは影と草の実くらゐなる

加齢なるにほひありけり韮の花

言はれたるまゝに蓮の実食うてみる

貶されも褒められもせず天高し

桐一葉ひとたび落ちて駆け出せり

總持寺へ二百十日の手を合はせ




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「人生」

長月や寄せて砕ける波の音にも

秋潮やことさら月の満ち欠けの

明け暮れの空瑞々し鳥渡る

道に暗き沙彌の手になる落し文

人生に後れを取りし芒かな

山葡萄猿と呼ばれし昔あり

つくつく法師夢の出口に迷ひたる

咲くことは浮かぶことなり秋桜

切株に口づけをして秋の蝶

秋天にひとり息継ぐ樵かな

八朔の酔へば人良き父なりき

真青なる空に影して通草の実

栗落ちて人生いよゝ坂がかる

迂闊にも驚かされぬる桐一葉

秋の雲何かに見えぬこともない

犬も食はぬ病ありけり梨を剥く

秋の蚊の打たれ易さよ哀れにも

とんぼとんぼ風の使ひとおもひけり

秋耕の影長々と畝過ぎる

人生に深入りしてはちんちろりん













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