再生への旅

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zoom RSS 仏道は文化であるか?!

<<   作成日時 : 2016/10/28 18:25   >>

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もみづるや生きながらへて見ゆるもの 玉宗

11月3日は永福寺の晋山式であるが、世間的には「文化の日」で通る祝日である。ノーベル賞から始まって、毎日のように新聞紙上やマスコミで「賞」なるものが発表される。昨日から今日に掛けて「文化勲章」「文化功労章」が発表された。そういえば、俳人の金子兜太先生も以前「功労賞」を貰っていたね。まあ、結果として社会や地域、国家の為になったということで、ご本人たちは自分の求めるところを誠実に、まっすぐ、弛まず精進してこられたということだろう。

生涯を懸けての社会人類への貢献に対してご褒美や栄誉を与えることに異議を唱えるつもりは毛頭ない。私のような言わば社会的落ちこぼれを自認する者には、世間の毀誉褒貶の埒外にいることで潔しとしなければならんし、家族や友人知人に支えられて生きていることに感謝しなければならんね。僻みや愚痴に生きるのではなく、今あることが人生の御褒美、誉れそのものであることに目覚めなければならんね。だれにも褒められずとも、私が私を褒めてあげたい、と言えるような生涯を尽くしたいものではある。

ところで、仏道は「文化」なんだろうか。
文化の定義といえば、〈ラテン語 colere(耕す)から派生したドイツ語の Kultur や英語の culture は、本来「耕す」、「培養する」、「洗練したものにする」、「教化する」といった意味合いを持つ〉といったところがよく指摘される。何を耕すのか。言うまでもなく「人生」であり、個人の人生の総体でもある「社会」でもあろう。生まれて生きて死ぬ存在。有為転変を避けられない存在である人間の人生を耕し、洗練し、教化するということであれば、「仏道」もまたその一役を担う領域であることは紛れもないところだと思うのだが。

お坊さんであることを「文化的だね」と言われることはない。お坊さんという生き方の中で「文化する」ということなんだろうね。自己を「耕す」ことを自認してきたつもりではあるが、実際のところは、「けもの」とまでは言われないが、偶に夫人に「野蛮人」と罵られることがあったりするが現実。いずれにしても、人様にほめられるような「文化人」でないことは間違いない。


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「水位」

赤芋茎白芋茎能登秋深み

梨喰うて腸重き水位あり

鮎落ちて蝋涙なせる夜なりけり

炎立つごとくに田鶴の舞ひにけり

栗おこは仏の母の御下がりの

林檎売り風に恋せし顔をして

色変へぬ一家離散の松なりし

屈葬の深さに仰ぐ星月夜

飛び込んで来たりし鮭をめった打ち

蓑虫や月の表に影なして


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「留守」

留守多き村なり菊の香るなり

秋惜しむ光陰止むすべもなく

暮れやすき花なり石蕗の光るなり

日を孕み風を孕みし芒かな

柿甘くなる日に夜を継いで睦まじく

落葉掃くさ中に風の立騒ぎ

トンネルの向かう日当たる紅葉かな

地の果てに火を熾すべく七竈

みちのくの頬っぺた赤き林檎売

いろいろあつてこゝにやすらふ秋日和

秋蝶や探し求めて埒もなく

露けさに目瞑る二十日鼠かな



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「初物」

握りたるおつりは温し秋時雨

ガム噛んで顎の疲れし秋日和

山里や雨に鄙びて末枯れて

村雨に野辺の送りやうそ寒し

その奥に秘密の館蔦紅葉

風に裂け風に破れし芭蕉かな

杉の実やふるさと老いてゆくばかり

初物の大根供へゆきにけり

夜霧濃く赤きポストのずぶ濡れて

死ぬる世にものをおもへと夜や永き

螻蛄鳴くと信じて賞を逸しけり

帰るべき故郷遠き夜食かな




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