再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 出家とはなにか?!

<<   作成日時 : 2017/02/16 17:13   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


擽れば拳をほどく木の芽かな 玉宗

若い芸能人の女の子が「出家します」ということで注目されている。「出家」とは何か?


「出家」もまた一つの「表現」である。その感性が試されている。その良心が試されている。その真価が試されている。誰も耳を傾けず、だれにも顧みられない表現・作品というようなものは存在しないに等しいか、或いは既に形骸化しているに等しい。「場」があってこその「表現」であり、「表現」されてこその「場」であり「自己」であり「他者」である。目覚めていなければならない所以だ。そういう意味でも「表現者」とは日々自己更新を続けるもののことであり、「出家者」もまた日々「欲望を超えた世界」へ自己を更新し続ける「覚者」であることが望まれるのである。 

肉食妻帯に関して言えば「勝手たるべし」なのであるから、各自の判断、自主性に委ねられたと見るべきである。宗門は現在「肉食妻帯」を禁じてはいない大乗仏教の路線にあるというのが建前である。ところで、宗教界にも在家社会にも「妻帯している僧侶は出家者ではない」といった指摘、批判がある。今の日本にあるのは「在家仏教」であり、「出家仏教」というのは有り得ないというもの。

「出家」とは何か?

お釈迦様は生まれたときから独身ではなかった。王子として生まれ、妻帯し、そして「王宮」を出られた。そして「サンガ」と呼ばれる「修行者の集団」へ入ったのである。そのような「一般社会とは違った領域の存在を受け入れる文化」があったと言う事だ。出家者の存在を否定しない社会。

「出家、在家に拘るのはおかしい」
そうだろうか?人間社会は味噌糞一緒で元も子もなくなるということもあるのではないか。忘れてほしくないのは、「自己を超える」という人間性、それは「在家仏教」でもまた避けて通れない人生の本質に関わる問題であるということだ。人間は環境の動物でもある。人間の自立とは本人が思い込んでいる以上に他律的である。言い換えるならば、煩悩や迷いから脱する手立て、方便、文化もまた、そのような「場」への検証があってしかるべきだと言う事。というより、そんな風に人間社会は現実の山河を歩んでいる。「出家社会」もまたそのような「一つの文化」なのではないか。

お釈迦さまは何故「家を出た」のか?

それは、欲望や苦悩や執着を越えようとしたということだ。「家」に止まるということは「煩悩に止まる」ということなのか?少なくともお釈迦様にとってはそうだったのだ。
それでは、現代の肉食妻帯し「お寺」という「家」に止まっているお坊さんは煩悩に留まりながら煩悩を越えようとしているのか、或いは煩悩がないのか、或いは煩悩を超えてしまったのか、一体何ものということになるのか?

日本には「出家」を受け入れる文化がなくなったのではなく、「出家」という文化を失くしたのは僧侶自身ではなかったのか?「肉食妻帯勝手たるべし」とは「行のあるなし勝手たるべし」といったことになってはいないのか?そんな在家の声が聞こえて来る。

「だれのために、何のために」

私は自らその為すところの思いや動機を代弁するのに、「人のため」とか、「社会のため」とか、果ては「仏道のため」とか、ついつい口にするのだが、静かにわが心根を観察してみれば、それが、自己の見栄や保身や根深い拘りなど、欲の世界の地平線上の話しに過ぎないのではないかと吾ことながらも猜疑心に苛まれることがよくある。私の存在が疑いもなく「公」なるものであったならば憚ることはないのだが、我が身一人の満足のために為す事を、「何々のため」という隠れ蓑を借りて正当化しているのではないのか。おまえはそれでいいのか、という一人のお坊さんとしては勿論、一人の人間としても、いつのころからか知れない内なる声がある。公的なものへ尽くさなければならんとでもいうような私的な、余りにも私的な声。
 
確かに、すべては自己の世界の様子であり、その為したり為さなかったりするところの因果応報は全て自己の為と言って間違いではない理屈がある。然し、実際のところその人生とはある意味競争であるといっても差し支えないものだ。自己を生きることは競争ではないという私の提言も、他の世界と一体としての様子の上からのことである。

それにしてもだ。善も悪も、慢心も卑屈も、自惚れも、すべておのづからなるものではある。そのような代物をすべて受け入れる器の大きさ、深さ、度量があるには越したことはない。我が身を可愛がるといったことも自然な本能のなりゆきである。目くじら立てるような代物でもない。他を欺き自己を欺く、他を買被り自己を買被る。他を蔑ろにし自己を蔑ろにする。他を侮り自己を侮る。そのように、ついつい「閉ざされた世界」を持ちたがるのが問題なのではないか。実につまらない世界である。狭い世界である。発展的でない世界である。

人間界隈の実相には慢心も卑屈も愚痴も妄想も必要とされてはいない筈である。私がどう生きるかによって「縁」の価値が決まる。他者や外の世界はさもあらばあれ、徹底的に自己の実相に親しく生きていくのであるに越したことはない。一人の世界を愛しみ、惜しみ、解放する。どこまでもおのれむなしく生きる。煩悩の世界に住して煩悩を越える。それをしも出家とは言うのである。





画像



「大乗寺」

霞晴れ息呑む加賀の大乗寺

山容の伽藍貫く雪解水

残る雪退かせて山と積み置きぬ

木の芽いま涅槃の雨に脈打ちて

冴返る御堂に膝を寄せ合へる

畏まるうなじに残る寒さかな

その奥に仏ほゝ笑む春の闇

韜晦の祖を尋ねばや山菫

生きものの脛に傷ある涅槃かな

盾となる斑雪山より初音かな


画像




「手応へ」

雪折の薪積みあり春暖炉

手応へのなかりし春の憂ひかな

曖昧な産湯の記憶雪淡く

如月や身ぬちに燠の燻りて

路地裏に闇の満ちゆく猫の恋

あり余る能登の寒さを振る舞ひぬ

切り傷の血を舐めてゐる余寒かな

目刺食ひ浮いた話もなかりけり

獺の祭りし魚や傷深く

氷に上る魚のまなこに映るもの

不甲斐ない男が一人雛祭

春の雨人に遅れししづけさの

初めての夜は脈打つ雛かな

少し固いが機嫌直して桜餅

斑雪野や加賀も湯涌の辺りにて



画像



「なる」

かんばせに朝のひかりや寝過ごしぬ

別れたくなる春水のたなごころ

春めくや流れを急ぐ水の音

佐保姫の裾吹く風やあらけなく

殴りたくなる春風の中をゆく

てのひらのさびしさ春の水掬ふ

春水の奏でる音や光りつゝ

春の山転がるやうに風吹いて

春焚火消えなんとして風に熾き

眠りたくなる日あたる膝のあたたかさ

残雪に日向日蔭や細みつゝ

ポケットに眠る拳や春の風






テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
出家とはなにか?! 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる