再生への旅

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zoom RSS 再生への旅・再考その3・「生死一如」

<<   作成日時 : 2017/03/03 16:42   >>

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春蘭やうす紅色に夜があけて 玉宗

能登半島地震に被災して実感として強く気付かされたことがいくつかある。
その一つに、災害にあうことも「縁」であるということ。諸行無常の在り様。それらは私の都合でどうにかなったり、ならなかったりするようなものではない。「縁」は私の恣意で選べるものではないという当たり前のいのちの現実を知らされた。選べるものではないからこそそれは人生の宝なのであり、その「宝」を「どう活かすか」といったことが私に試されている。生きるとはそのような次第の「縁を生きる」ことに他ならなかった。極めて当たり前の事実を、痛い目にあって知らされた訳である。

また被災体験は「仏弟子と何か?お寺と何か?」といったことに関して改めた考えさせられた契機でもあった。
生きるために喰う・喰う為に生きる。どちらも真実である。然し、人間は志しなく生きていけるものでもないし、また志だけが先行して生きているわけでもない。危うく、かけがえのない命をどんな人生に賭けるのか。私が仏弟子を選択したことはどのような「志」の為せる業だったのか。私が「お寺」を失くしたとはどういうことだったのか?「お寺を再建する」とはどんな意味があったのか?
 

答えのないままに、始めた再建托鉢。
そこには日々の「行」そのものに気づかされるといった予想外の展開があった。「托鉢」という「三輪空寂」の「事実・今」の中に「仏弟子であることの本質」があり、「仏法の全体」があるのだと云う事。そこには「今の事実に救われている私」がいた。「今の事実に足りている私の命」があった。

「仏道」とはつまり、今のいのちに目覚め、戴き、力を尽くすということであってみれば、「お寺」という「伽藍・かたち」が先にあって、「道・行」が備わるのではない。「ものとここころ」はつねに「同時」である。今、ここが、道の全体である。今、ここに、成道し、修証し、涅槃し、諸行無常し去り、自己を担い切る。行く先々が私の心映えであり、道場であり伽藍であり、私の世界である。

お寺の再建は私自身の再生であった。それを忘れてはならない。私の日常とは日々自己更新。自己再生のことに他ならない。妄想せず、かまえることなく、あるがままに、雲の心、水の意に添うて今を戴いて生きていこうと思っている。震災が気付かせてくれた「今に目覚めて、真っ直ぐ、生きる切る」という生き方。今を戴き跡を残さない。生きながら死に、死にながら生きる。生を学び死を学ぶ。生死一如の一大事因縁。諸行無常の宗旨。それはそのまま仏弟子の面目ではあったのである。



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「つちくれ」

みちのくや春をしづかに傷ついて

めぐり来る忌日や鳥は雲の入り

今もなほ沖に屍燕来る

潮騒や春の夢より覚めてなほ

鎹の子もなき雛を飾るかな

つちくれをあの世と春を耕しぬ

種袋振れば涙の音したり

北窓を開けて山の香山の音

哀しみの里に出でたる雪解水

雁の帰りし海やただ汎し



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「胸襟」

春愉しをみな謎めくことをして

木の芽風空の胸襟ひらくかに

雛飾るやがて一人となる妻が

淋しらの空や残りし鴨の声

雉子鳴く谺に山の深さあり

梅咲くや村を出てゆく雲流れ

目刺焼く味はひ深き顔をして

蜆汁小銭をさらふ味すなり

鶏小屋の網戸に刺さるはこべかな

しづけさや巣箱かけたる月の夜の

土塊にひかり鋤き込み耕せり

尻叩く母の手になる草の餅



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「間」

春ひとり人に遅るゝことをして

古草に坐る詮なきひとゝきを

産土の社鎮座す雪間かな

鬼が棲む村とし伝へ木の芽山

猫の子が見初められたる顔をして

雛の間の妻に手出しができぬなり

だれもゐぬ家はとびきり春の闇

春遅々と目覚めし山の水浸くにも

間が悪く雉子驚くじたばたと

山祇の褥あかるき春落葉

蕗の薹くらいは摘んで来いといふ

間が持たずふらりと亀の鳴く方へ





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