再生への旅

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zoom RSS 宗教が抑止力になるとき

<<   作成日時 : 2017/04/12 09:24   >>

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正義とははた迷惑な亀の鳴く 玉宗

昭和三十年生まれの私は戦争を体験していない。
「戦争を知らない子供たち」の世代であるが、私の回りには、世界中の戦争・紛争・テロ・略奪・犯罪・災害・事件事故、等々、人類や世界の愚かさ、賢さ、どうしようもなさ、はた迷惑さ、うさん臭さ、哀れさ、等々つまりあまりにも救いようのない人間らしさが毎日のように文字化や映像化されてやってくる。まるで地獄や阿修羅と紛う情報がコマーシャルや娯楽情報と同じように世界を駆け巡り、垂れ流され、忘れられている。現在だけではなく、過去のものも、そして未来の悲惨なシュミレーションまでもが、これでもかこれでもかという執拗さで繰り返される。情報を選択する余地もないままに、情報の飽和状態で今を生きているようなあり様である。

過去も未来も「情報」という動かし難くも陽炎のような「現実」となって私の日常に暫し留まり、そして通り過ぎて行く。「情報化」された「不安」や「希望」が霞のように私の空を蔽っていたりいなかったりする。まるで情報が神の言葉であるかのごとく。世の分別ある大人たちは「戦争を知らない」私達の「現実感の甘さ」を危ぶむ。「現実」を生きる厳しさ、厳粛さに欠けている戦後世代の危うさを憂うる。その一方で私達は血を流さなければ贖えないような「現実という化け物」のリアリテイのなさに戸惑っている。

今も昔も世界中に悲惨な事は絶える事がない。
それを見るたび聞くたび、感覚が麻痺するどころか、私は胸を締め付けられ、涙する。情報が私の感性を揺るがす。殆どそれは条件反射のごとくである。私の命のどこかに擦り込まれた他者の痛みを共感する感性。しかし、それは他者を排除する反作用として働くこともある煩悩の一つなのかもしれない。情報が溢れる現代と世界がまだ狭かった昔と、その感性に違いはあるのだろうか。お釈迦様の時代より現代人の方が、痛みを共感する能力が麻痺し劣化しているとは思いたくはない。

核の抑止力というものがあるのだという。相殺するとは暴力を無意味化するということか。暴力から意味を剥奪するならば、核を持たない抑止力と云うものもあるのではないだろうか。丸腰の人間を意味もなく殺めるほど人類は傲慢なのだろうか?

核爆弾が人類の愚かさの象徴であることは誰もが分かっている風である。然し、解っていても、どうすることも出来ない、どうすることもしない風でもある。もの解りのいい現代人の絶望も又、極めてリアリテイのないもになってしまった。これも「情報化社会」に浴する故の業であろうか。私という小さな存在がどうしたらリアリテイを持って今を生きる事ができるか、自己に落ち着くことが出来るか。宗教がそういうものでないならば、宗教そのものも自己抑止力を持たないものに過ぎないだろう。宗教が戦争の大義名分に成り下がる所以である。戦争の悲惨さが学習されないのは、個々の冒し難い命の絶対性への尊厳さが抑止力を持たないからだ。そのような人間力のパワーバランスであるならば宗教は永遠に戦争の抑止力とはならないであろう。

現実と理想。社会と個人。それは双子の兄弟のように分かち難く、そして全く別のもののごとく歩む。そのような世界の矛盾の為に私は存在するのだろうか?しなければならないのだろうか?社会とは個の集積だろうか?それは全く別の生きものなのではないか?「現実」はすべて、「私」という「小さな可能性」が「何をしたか」「何をしなかったか」という足跡であり、「愚かさ」とはやはり、私が私自身を知らないことである。自分や国家に都合のいい神や正義を掲げたがる人間の傲慢さがある。弱さがある。社会の愚かさはそのような個の人間性の集積として制御不能となる。

釈尊は個が単に社会の要素としての量的存在なのではなく、私一人のいのちの絶対的領域に生きる何物かであると諭す。命の深さへ向けて自己変革のアプローチに専念せよと云っている。自己の変革は世界の変革であるという確信がある。理想がある。それを為政者や社会は弱者の戯言と言う。顧みる値もないものとする。釈尊にはどこかにそのような人間や社会の愚かさ、傲慢さを見切っているようなところがある。

嘗て王室で暮らしていた釈尊。その王国が戦争で滅んでゆこうとしているのを見て、出家した彼は立ち上がり武器を手に戻ることはなかった。煩悩と云う情報に振り回されることもなく、ただ、黙って坐禅をして自己のいのちの深さに居座った。あれが宗教が抑止力となった瞬間である。一粒の種が地に落ちる瞬間。畢竟、宗教は戦争と云う愚かさに対して無力であるか。然し、それは人間に絶望することと同じ愚かさの表明ではないのか。人間がそうであるように、宗教もまた可能性の上の存在するものであるには違いない。この世は誰のためにあるのでもない。人類の喧騒も一瞬の火花である。抑止力?それもまた傲慢な人間の妄想に過ぎない。

諸行無常にして一切空なるものなるのみ。愚かな人類の破滅の後に虚しさの極みの静寂が地球に訪れていることであろう。永劫に宇宙はそのような虚しさを繰り返しているのかもしれない。



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「山に入る」

囀りや仏生まれて来る日の

杣家あり四方を山に笑はれて

空あけて春日あまねき雑木山

踏青や空は果てなく惜しみなく

山に入る鶯谺深くして

はくれんの些かひらき過ぎかとも

青柳風を手懐け始めけり

杖虎の赤銅なして芽吹きけり

蕗の葉の小ぶりながらも一つづつ

菜の花や裏表なきあかるさの

一人では少し退屈桃の花

住職の手に余りたる子猫かな

正義とははた迷惑な亀の鳴く


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「雨」

霞濃き峠を三つほど越えて

春潮の調べも絶えず千里が浜

ときじくの雨に潰えし落椿

雨もあかるき雑木山なる木の芽かな

海原を打つ雨寒き花のころ

霾るや扇とひらく城下町

花とひらく加賀も南や浜大根

花冷の香林坊に待ち合はせ

花も泣く城下の雨に打たれをり

坂がかる兼六園の花吹雪

一見の東茶屋街春時雨

花屑の吸ひ込まれゆく鯉の口

破れたる恋には痛き花の雨

捨て置きし盥に余る菜種梅雨

底ひなき夜の闇ある桜かな




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「たんぽぽ日和二十句」

憂ひなきたんぽぽ日和なりしかな

母ひとり子ひとり草と寄り添ひぬ

父子草洟を垂らして傷舐めて

ぎしぎしやきつとあかるい海がある

沖ひらけ浜の虎杖伸び已まず

茎立やだれも相手にしてくれず

明日がある空の青さや花苺

豆の花きのふと同じ夢を見て

障りなき風のゆくへや麦青む

比叡山より雲襲ひ来る紫雲英かな

早蕨やうつろひやすき山の日に

見るからに土筆摘むにも大人びて

はくれんの純白空に閃きぬ

雀の鉄砲一向一揆の地なりけり

野良にゐる母を迎へにかもじ草

野蒜摘み褒められもせず手を洗ふ

クローバー夢を語ればきりもなく

道のべの春の蕗摘む意味もなく

春蘭の今し薄衣脱ぐところ

山門を出でてほどなく葱坊主














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