再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 正直さと謙虚さ、どっちが大事?!

<<   作成日時 : 2017/06/18 05:20   >>

トラックバック 0 / コメント 1

画像


薔薇咲くも咎められたる心地して 玉宗

子供はいつまで父親を「聖人君子」のような存在として見ているのだろう。
自慢ではないが、私の中には人様に言えない闇もあるし、光りもある。善もあれば悪もある。善行もしてきたが悪行も些かなりとも体験済みである。清もあれば濁もある人間を自認してきた。言えることは自分に正直に生きて来たということ。しでかしたことには良きにつけ悪しきにつけ言い訳をしてこなかったつもりである。然し、正直も馬鹿がつくと自滅の道を辿ることは勿論、他者をも巻き込む始末になることを学んでいる。

正直がダメとか悪だと言っているのではない。正直さ加減も使い方次第で悪にもなれば善にもなる。いったいが何に対しての正直なのであるか?何を目論んでの正直なのであるか?正直であることで自己の欲望を拡散しようという無責任さがそこにはないのかどうか。単なる世間知らずの、都合のいい類の人間ではないのか。等々、自己反省するのに事欠かない仕儀とはなっているのである。自分に正直に生きることより大事なことがあるのを還暦過ぎて悟るというのも、なんだか歯痒い。

人が人として生きるとは信頼関係の中での話である。信頼とは商売の世界だけの通用する人徳ではない。自己が自己となる仏道の目的も又、様々な人間関係の信頼によって支え支えられていくのが実際であろう。自分に正直であることがその信頼関係の破綻にならないかどうか、自分の欲望に正直であることが全面的に許されるものではないことを人は知らなくてはならない。大人になるとはそういうことだ。

そんな大人は実につまらない存在だと若者は論うかもしれんが、自分の欲望の満足を先行するしか能のない若者もまた実につまらない存在ではある。損得だけが人生の価値基準ではないし、損得を前にして正直さが変質することが多い。まさに清濁併せ呑んでいるのが人間と云う可能性の存在さ加減なのであろう。

そのようなことをも含めて、自己を知るものをこそ尊く、幸いである。倅に強く言いたいのは、不肖の親であり師匠である私という清濁を併せのむことができる人間になってほしいということである。私に聖人君子の面影を期待しているということは、彼自身の中に未だ自己の真相にめぐりあっていない可能性が十二分にあるし、それはまた他者への融通の利かない正義感の危うさを抱えているに違いないのである。

自分に正直であることも大事ではあるが、それ以上に自分を越えたものへの謙虚さがなくてはものにならない。人生を学ぶ姿勢に欠かせない謙虚さ、それは仏道に於いても然りである。碌でもない自分持ちの世界に正直であるよりも、おのれ虚しく、白紙の状態ですべてを仏の世界に委任できるような謙虚さによって育まれた「信」がなければ話にならんだろう。

若いうちは自己愛的な理想や理屈が先走るものではあるが、そのうち否でも現実という化け物、壁にぶち当たり、跳ね返され、躓くことであろう。そのときこそが飛躍の機会だ。人は躓いたところからしか立ち上がることができない。挫折が再生のチャンスであるとは実に万古不易の真実であると言って過言ではあるまい。そういう意味でも父という存在はお手本でもあり、反面教師でもある。われ以外はみな師と思って間違いない。父もまたそのような一期一会の縁なのであり、親子もまたそのような縁を学び、活かすことが試されていよう。いずれにしても人生を学ぶ謙虚な姿勢が必要不可欠なのである。



画像



「杳として」

牛蛙夜伽終へたる畦道の

棺桶は明るき部屋に蝦蟇の夜

夕空に影し蝙蝠掠め飛び

月光を山椒魚に呑み込まれ

海亀の去りにし浜と聞くばかり

くちなはの杳としてゐて紛れなく

亀の子が波に攫はれ喜べり

赤腹のひとたび浮いてまた沈み

蛞蝓が水のやうにもゐなくなり

折からの雨蛙なり眠るべし

河鹿鳴く峡谷にして県境

蝸牛生まれて以来あてどなく


画像


「後悔」

後悔に先立たれたる昼寝覚

いかづちや天の岩戸を叩くかに

踏み込みし草の中より夏の蝶

との曇る風の湿りも水無月の

淋しらの浜昼顔の沖を見に

この道を行けば海あり花うばら

空青く渓深くして朴の花

言ひ過ぎて後悔頻り額の花

雨過ぎし後のあかるさダリア咲く

夕焼けの空に傷つき癒されて

忍冬の燻る花の華燭かな

釣鐘草心ならずも日の暮れて




画像


「末路」

父の日や沖遠くしてやすらけく

桑の実の焦げたる色が甘かりき

晴れ晴れとさざめき渡る青葉風

不器用に生きて本望花南瓜

はんざきの月に出て鳴く末路かな

縁側に寝まれば風の涼しさよ

梢吹く風のさゆれや昼寝覚

草笛の夢に破れし音なりし

蓮ゆれて風が素通りしてゆきぬ

父といふうら淋しさに端居せり


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
 正直に生きるという事が、世の中で善に働くのか悪意に満ちて終わるのか、どちらとも言いがたいとの事のようですが、私も暮らしの中でぶつかる思いです。
心の欲する処を行うことなど殆ど無い様に思います。自分の思うままに発言したり行動したら、怒り狂うようなことばかりですから、大部分を内に秘めて世間に合わせている場合が多いと思います。最近一番嫌なことは学問を受けながら、性犯罪に走り、それも集団で女性を暴行するような事件報道です。これは正直とか自己に忠実とかの枠からはみ出した自己中、欲望そのものです。政治家の重ねる嘘なども、あまりに酷く思えてなりません。道徳教育などと持ち出す心が既に腐っていると怒りが鬱積しています。
みどり
2017/06/19 18:35

コメントする help

ニックネーム
本 文
正直さと謙虚さ、どっちが大事?! 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる