再生への旅

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zoom RSS わが俳句教室雑感

<<   作成日時 : 2017/07/15 06:03   >>

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向日葵の焦がれて已まぬ丘があり 玉宗



現在、わが俳句教室に通っている生徒さんは3人である。一人はメール添削。俳句歴十年以上の高齢者に属する男性と退職して昨年から俳句を始めたと云う女性2人である。何事も習い事は白紙の状態から始めるに越したことはないというのが、私自身の経験則からの感想である。ほかでもない、俳句歴の浅い方が俳句的感性に秀でていたりする。結社の同人だという方が、観念の窮屈さや自己類相に自縛していたりすることがある。当然、月並みだし新鮮味もない。

俳句の醍醐味の一つに「即興の妙」、つまり「あたらしみ」がある。月並や類相の弊害に陥りやすいのは観念句、写生句のどちらにも当て嵌まるものではあるが、どちらかと云えば観念句の方がつまらない事の方がおおいのではなかろうか。自戒を込めて言うのであるが、自己満足、自惚れは文芸の塩ではあるが、何事も過ぎたるは及ばざるがごとしで、鼻もちならない狭い世界を提示して事足りているつまらなさがある。
 
俳句がつまらないのではない。つまらない俳句があるのだ。観念がつまらないのではない。つまらない観念があるのだ。写生がつまらないのではない。つまらない写生があるのだ。人間がつまらないのではない。つまらない人間があるのだろう。俳句の個性とは流行への臭覚と共に普遍性、客観性といったものへの遠慮が欠かせない要件である。言葉は生きものである。表現とは言葉という生きものを手なずける謂いであるのかもしれない。

そのような表現の一つである、たかが五七五の最短定型詩であるが、定型に翻弄されるのではなく、この定型を使いこなすには或る種のセンスがいるようだ。俳句的把握、俳句的美、といった世界の切り取り方、関わり方があるだろう。俳句という韻文に、新聞の社会面で扱うような事柄を詰め込むようなことをしても、それは散文の切れはし、新聞の見出しにも劣るというものだ。韻文と散文とでは言葉の色合い、深み、響きが違うのではないか。それはとりもなおさず、感応している領域が異なるからであろう。

韻文は事実の報告ではない、事柄の脚本ではない。理屈の陳述ではない。説明ではない。詩とは解ることではなかろう。感性による世界の認識。いのちという感性が、言葉という感性の所産を無心に使いこなすのである。無心であること、そこには当然、「無私なるもの」への憧憬、共鳴、共感が前提条件として働いていなければならないのではなかろうか。無私なるものこそが美しい、といった哲学があってもなんら恥じ入ることはなかろう。

つまり、私の生き方そのもののと切り離せない詩的真偽が、俳句の前提条件として要求されているということ。詩は無心の器に降り注ぐ。そうでなければ表現という言葉を越えた世界の一句を授かり一句に出会うこともなかろうし、一句も又、そのような私に出会うことを望んでいるに違いないのだから。文弱の徒ながら、たかが定型に命を削る所以も那辺に窺い知れようというものだ。

俳句教室では毎回十句前後の作品を鑑賞し、添削、推敲している。共に学んでいて気付くことがいくつかある。自戒を込めて言うのであるが、例えば、俳句も又文芸であるからには「言葉」との「格闘、選択、選別」といった表現の為の必要条件が欠かせないということ。当たり前なことではあるが、最短定型詩である俳句の実際では「言葉」への「拘り・精選」度といったものが結構緩いようなところがあるからである。韻文が感性の賜であることは、言葉の問題が二の次であるということではなかろう。「言葉」を引きよせ、或いは引き離すのも、作者の感性に委ねられた力技であろう。「言葉」は感性のかたちである。それを使いこなし、再生し、息を吹き返させなければならない。俳句の命は「新鮮さ・あたらしみ」である。それは「いのちの気息」に添った文芸形式であることを意味していよう。
 
五七五、短詩形故に似たり寄ったりの味わいではあるが、似て非なるものであることも確かである。「言葉ひとつ」「助詞ひとつ」も疎かにならない所以でもある。俳句に於ける「切れ」の問題も「間・余情・余白」といった「言葉の掛け橋」へのセンス・感性が試されている。月並とは常識に止まることなのだろうが、それは「感性を尽くす」ことを止めたということでもあろう。「意は似せ易く、姿は似せ難し」という教えがある。目に見えない「意・こころ・感性」というものは真似がしやすいものだというのは常識に反している。常識は目に見えないものをこそ真似する事が難しいものだと錯覚している。常識は「姿・かたち」ばかりを真似ていると非難するが、真似ごとと本物のの匂いをどこかで嗅ぎ分けているようなところもあるから曲者だ。目に見えるものをこそ真似が難しく、誤魔化しが利かない。

天才は予想外の「意」を持っているものであるが、凡才は「似たり寄ったりの意」で自己満足しているものである。善悪の問題ではなく、人並、常識でいることをこそ、その本領としているからである。そのようなスタンスで韻文に関わることもまた否定できない大衆文芸の現場である。そうではあるが、非常識な天才の出現を妨げるようなことがあってはつまらない。余談ではあるが、できることなら私もそうありたい、否、口外はしないが自分が天下一品であると自惚れている節がないこともない。そこに落とし穴があるのであろう。

文芸とは「自惚れ的」な領域もなくてはならない。そしてまた、「極めて客観的」な地平、眼差しもまた持ち合せていなくてはならない。俳句創作に於ける「言葉」も又、そのような端的な問題から逃れられないのではなかろうか。もしかしたら、それが全てなのかもしれない。韻文とは「言葉」という「姿」への作者という「意」の寄り添い方、着こなし方ということではないか。最短定型詩という「表現」の本質にそのような視点があってもいのではなかろうか。類句、類相といったことも「意・感性」と「姿・言葉」との地平から点検できそうな気もしないではない。




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「じたばた」

梅干すや日に夜を継いで昼寝して

避け難き老いに嗜む梅酒かな

ががんぼの忘れし脚がじたばたと

潮騒の已まぬ塩田句碑一基

窓岩に西日差し込み溢れけり

揚羽蝶正夢のごと見失ひ

ふがいなくも飛んでみせたる螻蛄かな

神の子を月へ差し出す露台かな

夜店より戻れば家の明るさよ

白々と風がはためく南より


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「家族」

夏の空洗ひ晒しに明け暮れて

朝顔や家族に似たる素朴さの

待つことに慣れてしまへり水を打つ

散るよりも咲くが淋しき沙羅の花

風鈴のはるけき音がすぐそこに

声出して笑はずなりぬ捩り花

なにもかも今日を限りぞ初茄子

桔梗ややがてひとりとなる二人

その中の蟻が嘶く真似をせり

夕焼や家族の如きわびしさの

星仰ぐ露台に地軸傾けて



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「かすかに」

青栗の刺々しさも懐かしき

散るために木槿は咲いて余りあり

初蝉やかすかに風の湧くやうに

だらしないやうに毛蟹を貪りぬ

父と同じ愁ひとおもふ冷酒かな

揚羽蝶翔つたまゆらの重さあり

凪いでゆく風に酔うたるあふひかな

夕月に花とうごめく烏瓜

宵闇の仄かににほふ月見草

星涼しそろそろほとけ来るころか


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