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zoom RSS 今日の教外別伝『お寺はだれのもの?!・こころとかたち』           

<<   作成日時 : 2017/09/14 04:09   >>

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禅僧の一喝虫の飛び出しぬ 玉宗


永平寺を後にして京都の在家の屋敷で静養されていた道元さまの最後のご様子が伝えられています。
臨終近くの床から起き上がり、座敷の柱に法華経の一文を墨書されたそうです。それは神力品という中にある次のようなものでした。

「よくよく心得なさい。このところが即ち道場なのです。諸仏祖師方はみなここで悟り、ここで法を説き、ここで涅槃に入られたのです。云々」

お経には「このところ」とあるのみで、永平寺とも、何とか寺とも具体的には示されてはおりません。
「このところ」とはどこでしょう?

ご存知のように、道元さまは五十四年のご生涯を「行」によって生き抜かれたお方でありました。病の身となり永平寺という修行道場を去らなければならなかったときのご無念とは如何ばかりであったことか。しかしご縁にしたがい、最後の身を養っていた小さな屋敷を「道場」であるとお示しになられました。

病の身を養うことも「行」であります。「このところ」とはまさに「行」がなっているところであったのです。「道場・寺」という「伽藍・かたち」が先にあるのではなく、「行」のある「このところ」が「道場・寺」としての本質を備えているというのです。まさに直心道場です。

私は能登半島地震で一度お寺を無くした訳ですが、復興途上で痛感したことがありました。

それは、「一体お寺とはだれのものなのだろうか?」ということです。

住職のもの?いいえ違います。檀家のもの?いいえ違います。だれのものでもありません。お寺は「行をするもののためにあるもの」「そのこころざしがあるもののためのもの」というのが私の答えです。

勿論、「行」には僧と一般の信者との違いはあります。
しかし「ほとけの方を向いて生きていこう」という「こころざし」は同じ。あえて言うなら、「お寺はこころざしある者のためのもの」と言えましょう。伽藍の大小、檀家数の多少、布施の多少は欲の世界の話であります。

「お寺」をなくしたということは私にとっても檀家にとっても「行」の場を一つなくしたということでした。しかし全部なくした訳ではありません。「行」はどこでもできるのです。「このところ」に決まったところはありません。私は「托鉢」という「このところ・行」に生きていました。小さな「お寺」でしたが、行く先々がわがお寺でもありました。多くのご縁に手を合わせながら歩ていました。

そして曲がりなりにもなったお寺という伽藍の再建。それはひとつの「かたち」「器」が成ったということです。「かたち」はいつもあるべき「内実」を求めています。「こころ」という目に見えないものだけが自由自在なのではありません。「かたち」もまた「内実」と同様に自由自在をその本質としているのではないのかと思うようになりました。

内外一如。今もなお、そして永遠に、一如たらしめるべき私の力量がためされているものと心得ている次第です。


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「実」

同胞の行方も知れぬ木の実かな

一つづつひよんの実もらふ嬉しさよ

融通の利かぬくわりんの実なりけり

墨染の袖に草の実縋りけり

棗の実ひとつ二つと色に出て

樫の実や競ひし兄も疾うになく

この頃の雨の暗さよ実山椒

触れもせで傷みし桃の実なりけり

梔子の腸熱き実なりけり

藤の実やみだりがましき風情あり

混沌に目鼻付けたる椿の実

杉の実やふるさと老いてゆくばかり




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