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zoom RSS 禅語とは何か?!

<<   作成日時 : 2017/11/26 05:10   >>

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ひとつづつ置いたる如く散紅葉 玉宗


先ず「禅語」とは何かといったことなのだが、

「禅語とは禅独自の趣旨を内包する語句のことで、短い一句の中に先人たちの禅の心や悟りの境地を込めたもの。禅僧、道人の、その人ならではの独自な信仰告白、心境告白は、宗教の世界だけのものでなく、むしろ悩む苦しむ世俗の中に生きる人々に知って欲しいものも多く含まれている。」

といった至極当然な定義がされている。
案の定「禅」の何たるかは差し置かれているし、順序として「禅語」から「禅の趣旨」にアプローチしようとする試みも解らないではない。心得て置かなければならないのは、本来、いずれも仏道修行者の生の現場でのやり取りであるということ。そして尚且つ「不立文字・教外別伝」の宗旨を面目とする禅の現場であるということ。言葉は月を指す指であり、そのものではないし、一旦書き記されテキスト化された「禅語」なるものは「粕」の様なものであるという指摘も強ち間違っているとも思えない。そしてまた。その現場は誰の現場なのであるかという事だ。他人事でない、自己の一大事因縁として自問自答しなければ妄想に妄想を重ねることとなろうし、「無一物に還る」どころか、「無の一物を抱え込んでしまいかねない」ことを言っておきたい。更に付け加えれば、禅は私の、今、ここの、いのちの話であるということを。


「喫茶去」

「喫茶去」とは「退歩」を学ぶ気はあるのかと問うている。
目くじら立てて、眼血走って、肩肘張って、自見を逞しくして「悟り」だとか「仏」だとか「正義」「善悪」「進歩」だとかを求めることの危うさといったものがある。百尺竿頭進一歩するわが仏法という「沒地味の茶」を学ぶ志意気があるのかな?と。修行者のやる気を問うている。本来、茶席で済ますような生温い話ではないと思うのだが。


「日々是好日」

先ず以って何を「好日」というのか。
好悪定めがたし。何度も言うが、仏道の話である。善は急げといった欲の次元でどうなるようなことではもなかろう。又、私の都合でもない。私には「日々是好日」が「諸行無常」とも「色即是空」とも見えて来る。仏道の実際はそのような「今」にしか通用しないし、諸行無常の今に通用する仏道だからこそ好日なのである。時を選ぶなではなく、時は選べない、縁は選べないと言っているのだ。


「和敬静寂」


安居修行は仏弟子の面目である。
叢林、僧堂、修行道場は競争の場ではない。自己が自己に落着する現場であり、その自己たる仏道の自立は修行者同士の自律他律の中で育てられていく実際がある。一期一会、和合は精進に欠かせない要素でもある極めて当然の事実である。事実は敬わなければなるまい。それだけのことであり、お互いが自己が自己でなんともない、それを涅槃とも菩提とも寂静というのである。佛法僧の三宝が当に彼岸、理想郷たる所以である。


「平常心是道」

心理的操作の次元の話ではない。
スピリットでもない。もっと云えば「心」の話でもない。命生きている今の事実を、仮に「私」とも「平常心」とも「是」とも「道」とも云っている。「色即是空・空即是色」事実を提示しているだけなのである。だから何も言っていないに等しい。というか、畢竟「禅語」なるものは何も説明していないし、解釈しろとも迫ってはいない。苦界に輪廻するのか、彼岸に転生するのか。死んでからのことではない。お前はどっちを向いて生きているのかと問うているのである。「禅語」は「私という月を指差して」その覚醒を待っている。




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「ゆふまぐれ」

托鉢の小銭ばかりの寒さかな

生家なきふるさとの山眠りをり

表より裏はとびきり冬の暮

綿虫や尻に火のつくゆふまぐれ

厚着して社会の窓に手こずれる

ひとつづつ置いたる如く散紅葉

湯冷めして類句類相目に余り

落葉掃く途方に暮れて日に暮れて

墓あばく顔し蓮根を掘りゐたり

ねんねこや子を捨てかねて唄ふなり

夕空に影し燻る焚火かな




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