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zoom RSS 今日の教外別伝「ご詠歌の世界とは?!」

<<   作成日時 : 2017/11/03 04:33   >>

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赤き実は誰が思ひぞ秋深く 玉宗

宗門のご詠歌は「梅花講」と呼ばれ、毎年行われる全国大会には全国から多くの梅花講員が参じて盛大を極めている様子である。梅花講員の構成員とは寺族と檀信徒である。教師師範は勿論お坊さん。宗門には梅花特派布教師と尊称されるような、その道のプロフエッショナルなお坊さんがいらっしゃる。実力にもレベルがあるのだろうが、受講生も含めてその数は相当なものらしい。

ご詠歌の歴史は真言宗などは古いものだろうことは想像できる。曹洞宗は比較的新興に属するのではないか。そのような次第の御詠歌である。批判などしようものなら宗門から排斥されかねない。私は御詠歌の存在を無意味だと云うつもりはない。「かく云うお前は俳句文芸などという情緒の世界にうつつを抜かしているではないか!」という批判は免れ難いのを承知で言うのだが、「仏道」と「情緒的世界」との関わりといったもののけじめをつけて置きたいのだ。

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宗教(禅も宗教であるとしての話ですけど)というものが情緒的癒しの世界に、それも集団的に傾斜しちゃっていいんだろうかと以前から危惧している訳、私のようなへそ曲がりは・・。情緒的世界の癒しを否定したり、笑うつもりはないのだが、どこかで「死んで天国で私を見ていてください」と言ったようなことを臆面もなく仏教徒が口にする国民性と似たような危うさについていけないところが正直ある。

道元禅師の「傘松道詠」は情緒的世界に沈潜しているだろうか?もっと云えば、「正法眼蔵」という「言葉を駆使した不立文字教外別伝」は情緒的世界に酩酊することなど称揚などしてはいない。「仏道」が不立文字教外別伝ならば「御詠歌」も不立文字教外別伝でなければならない。坐禅も読経も作務も日常茶飯、私にとっては「俳句」も不立文字教外別伝である。俳諧には情景に即き情景を離れる潔さがもとめられていると思っている。虚に即き虚を離れる。実に即き実を離れる。虚実に遊化するとはそういう感性の事情をを指しているのではないか。

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情に流されるといったことを一概に善し悪しで括りたくはないが、人生の一大事を見誤る可能性がないことはない。宗教は人間性に即きながらもどこかで人間性を離れなければならないのではないか。不即不離。人間に即きながらも人間を離れる。文字に即きながらも文字を離れる。癒しに即きながらも癒しを離れる。

仏教的救いとは何か?情緒に癒されることもあろうが、情緒に迷わされるのも現実である。仏道はその輪廻を断ち切らないかと言っているのではなかったか?!そのような「離れ業」こそが「仏道の面目」ではなかろうか。
そのような功夫が御詠歌の実際にも求められているのではないかと常日頃から思っている。
それもこれも、私自身、情に流されやすい人間であることを誰よりも、厭というほど知っているからこその提言ではある。

まあ、夫人を見ている限り要らぬ心配の様ではあるけどね。\(^o^)/


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「重さ」

色褪めぬ重たさ紅葉且つ散りて

大輪の菊を咲かせて無位無官

柚子切りて爪の垢ほど添へにけり

母がまづ棗を食うてみせにけり

沖重く閉じゆく能登の冬隣

茶の花や昼過ぎのそのうつろさの

鬼の子の死に真似風の百日ぞ

綿虫に空の重さとつれなさと

淋しらのまなこ枯れゆくいぼむしり

大空を淋しがらせて姫椿

銭湯へ近道路地のカシオペア

今年また見逃しにけり後の月







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