再生への旅

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zoom RSS 仏の顔とものほし顔?!

<<   作成日時 : 2017/12/02 04:21   >>

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雪安居雪ふる音に目覚めつゝ 玉宗

昔、住職になって間もない、まだ祖院に出仕していた頃、古参和尚にこんなことを真顔で言われたことがある。

「あんたの顔は人様がなにかくれてやりたくなるような顔をしているね。」

「って、どんな顔だい。もの欲しそうな顔をしているということ?」

「ん〜 微妙、、そんな悪い意味じゃないんだよ。」

「ものほし顔か。ものほし竿ってのは聞いたことあるけど、、、、どうしよう。」

「いや、別に、どうしようって、困ることないんじゃない。人様からお布施を戴くのがお坊さんのお勤めでもあるんだし、あんたはヤッパリお坊さんが天職なんだね。いや〜 まいったな。」

参ることもないと思うのだが、妙にあの言葉が忘れられない。どちらかと言うと、私は欲しいものを欲しいと言えない質である。しかし、言葉には出ないが、顔には出るらしい。千里眼で鼻も利く妻などは次の如く宣うのである。

「お父さんは嘘をついてもすぐ判るわ。喜怒哀楽も判り易い。顔に出て隠しきれないのよね。本当にこれで坐禅しているのって言いたくなるわ。修行が足りないのよね。禅師様なんか未だに若い雲水さん達と修行してる、偉いわ〜 違うわね本物は、、」

言いたい放題である。
図々しさと喜怒哀楽の煩悩を内に秘めた「ものほし顔」の外面をもつ男。ほとんど妖怪だ。六十才を過ぎたこの「ものほし顔」に責任を持った生き方とは如何なるものなのか、結構悩むところではある。

「自分の顔に責任を持て」と忠告したのは、第16代アメリカ合衆国大統領エィブラハム・リンカーンだったか。
あの顔にして偉大な歴史を創ったのだ。顔は「公共のもの」という穿った見方もある。仏弟子ではあるが髭でも伸ばそうかと思ったりすることもある。少しは人類の歴史に参画できるかもしれない。って、こういうのが既に無責任なのだろう。

それにしても、ものほし顔と呼ばれて浮かれている場合ではない。お坊さんは施されてなんぼのものと思われることが心外ではないか。施されてばかりではない。お坊さんは施すことのプロでなければと常々思っているところ。そのような次第の顔、いわば仏様のような顔になりたいものだ。棺桶に入る前に、一刻も早く。デスマスクがものほし顔では困る。







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「山気」

朝に夕に空蒼ざめて雪安居

朝粥に生きた心地や臘八会

冬ざれの山気迫りし結跏趺坐

臘月や獣のごとき大伽藍

冬灯し文殊菩薩の智慧を借り

面壁の影のゆらめき霜の声

しはぶきのほかは音なし雪来るか

参籠の一灯漏るゝ冬木立

禅堂の三和土に沈む寒気あり

警策の音冴えわたる夜の底

大悟もならず眠るばかりぞごろすけほう

仏弟子は北を枕や星冴えて










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