記念写真って、どうよ?!

神妙な記念写真に納まる四月 玉宗  先日4月6日に行われた大本山總持寺祖院震災復興落慶法要での記念写真である。大祖堂前の階段を雛壇として前列から錚々たる宗門のお歴々が並んでおられる。元より身の程を知らぬ訳ではないので、当初は記念写真に入るつもりもなかったのだか、なんだかそれも慢心のなせる業のような気がして、流れ…
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魚の貌・人間の顔・仏の相

      子を攫ふ顔し風船売る男 玉宗  嘗て、俳人・加藤楸邨は魚の貌が真面目であることに感心しているような文章を書いていた。魚の顔の真面目さに比べて、人間は少し真面目さが足りないのではないか。つまり、それは真摯に生きる姿勢の不徹底さを衝いているのであろう。如何にも人間探求派と呼ばれ、真実感合を唱えた楸邨の面目躍如…
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末世の比丘

堅香子の花に木漏れ日五合庵 玉宗            宗教の本質が改めて問われている時代になっていると指摘されて久しい。お坊さんが無自覚に流されてきたことが現代人に疑問視され始めているという文脈の中の話しなのだろう。お葬式や法事だけがお坊さんの役目であった時代が終わろうとしている。葬儀を取り上げてみても、それは宗教行事で…
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有縁無縁に囲まれて

宵を撞く鐘の音にも遅き日の 玉宗 檀家ではないのだが、近所で生活保護を受けていた一人暮らしの女性が亡くなった。 親戚筋に連絡も取れなかったらしく、数日経って故人と近所付き合いしていた方がお寺を訪ねて来た。事の成り行きで喪主という立場になり、亡くなったその日に市役所の所員立ち合いで火葬に付した。お骨になったので…
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總持寺二祖峨山韶碩大和尚 

瑩山紹瑾禅師の後を継がれた諸嶽山總持寺第二代大現宗猷國師峨山韶碩大和尚は、建治2年(1276)宝達山南麓河合谷村・能登国羽咋郡瓜生田・現石川県河北郡津幡町瓜生大泉庄、押水大海荘に生誕されました。父方は源氏、母方は冷泉家(藤原北家)とされています。 11歳にして教院に身を寄せ、16歳正応四年比叡山延暦寺に上り菩薩…
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總持寺開山太祖常済大師

諸嶽山總持寺開山弘徳圓明国師太祖常済大師瑩山紹瑾大和尚は、文永元年(1264)10月8日陽暦11月21日に出生されました。生誕の地は、越前国多彌観音堂之敷地(現・福井県武生市帆山町)とも、福井県坂井郡丸岡町山崎種の地とも伝えられています。 幼名は「行生」。8歳にして剃髪、永平寺三世徹通義介和尚に参じ、永平二代孤雲懐…
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大本山總持寺祖院震災復記念興落慶式

囀りや仏生まれて来たる日の 玉宗 4月6日、能登半島地震被災14年目にして復興を成し遂げた大本山總持寺祖院の復興記念落慶式に出席させて頂いた。横浜鶴見の大本山總持寺江川辰三大禅師猊下御親修のもとでの大般若経転読祈祷法要を御親修。両班として随喜した。 招待者等含め僧俗合わせて百名ほどが大祖堂に参列。法要の後、禅師様の御…
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葬式仏教批判の行方

供へたる樒も花となりにけり 玉宗 葬式仏教という言葉は、現代の仏教やお坊さんを揶揄するのに使われているのには違いない。それは、葬式しかしない仏教、お坊さんという意味であり、ひいては仏教本来の意義を見失った仏教という意味なのであろう。 江戸時代初期、幕府の宗教統制策によって、寺請檀家制度が設けられだ結果、仏教が…
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花のいのち

囀りやほとけ生まれて来たる日の 玉宗 能登の春は冬のイメージと打って変って花が咲き競って明るいものです。 ひと月遅れとなりますが五月の風薫る花のかんばせに囲まれての花祭り。お釈迦様の誕生に相応しいと感じるのは日本と云う四季豊かな仏教国ならではの感慨でしょうか。 「降誕会」は生れ合わせたいのちの奇蹟に思い…
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寄り添いという間の取り方

菜の花に吹く風だれも咎めざる 玉宗 先日、ある婦人が家庭内の事で相談にのってほしいとやってきた。 ギクシャクした嫁姑のこと。自分勝手な姑とそんな母親に育てられた我儘な夫への失望を語っていった。精一杯家族のために身を尽くしているのに分かってもらえないことからへの絶望感。子供がいることでなんとか自分も外で働きながら、嫁いだ先…
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祈りのかたち

花はみな祈りのかたちうららけし 玉宗 「願わくばこの功徳を以て普く一切に及ぼし 我らと衆生とみな共に仏道を成ぜんことを」 わたしはお通夜の説教の最後には必ず出席者に手を合わるようにお願いして上述の短いお経文を唱える。「普回向」と呼ばれるもので、どの宗派でも通用するものである。「ことを」で終わっている文脈か…
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小さなお葬式、大きなお世話・再考

龍淵に潜み火宅に灯が点る 玉宗  昨今、SNSは勿論のこと、マスコミ上に「小さな葬式」という宣伝広告が目に付き出した。「安く、費用がかからない葬儀」を「提供」する「業者」。お坊さんへの「お布施」もその削減すべき費用の項目に入っていて、当然のように僧侶一人で法要を執り行う。それに応じるお坊さんがいる。「直葬」「家族葬…
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季節のアルバム・能登半島地震の日

震災を共に生きたるさくらかな 玉宗 3月25日は興禅寺が全壊した能登半島地震被災から14年目。 当時、私と夫人は五十代に入ったばかり。お互いまだまだ若いつもりで暮らしていた。成り行きとはいえ、再建への思いも自然に湧いてきて年齢のことなど考えもしなかった。 再建できるという確信などなかったが、「なんとかな…
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托鉢の風景・その6

犬も食はぬ時の過ぎゆく桜餅 玉宗 三十年以上托鉢をしているので、輪島市内の路地を裏の裏まで知り尽くしている。夢にまで出てくるほどだ。これってやばくない?と思うこともある。犯罪者に手引きを頼まれたら強力な後方支援者となるに違いない、って妄想もしたりする。まあ、それは冗談だが、お坊さんを引退したら郵便屋さんでやって…
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托鉢の風景・その5

蕗の薹次々土手を越ゑゆけり 玉宗 ランナーズハイ(Runners High)という言葉がある。マラソンなどで長時間走り続けると気分が高揚してくる作用で、ランニングの途中で苦しさが消え爽快な気分になるらしい。脳内にエンドルフィンという物質ができて、気持が良くなるのだという。走り続けて、ある限界を超えるとその後はこの物…
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出家の本懐

鳥雲に仏弟子といふ旅人に 玉宗 彼岸の中日。今日も大本山總持寺祖院の法要に随喜した。 三日間に亘って執行される春彼岸会法要。開山二祖国師諸大和尚への嘆仏による献飯諷経。永代祠堂追善供養。旧納骨霊位供養と続き、塔婆供養となる。了而、法話。 今年は我が弟子がその役に当たっていた。 僧堂では「維那補」という配役…
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托鉢の風景・その4

托鉢のみな仰ぎゆく花杏 玉宗 托鉢をしていて犬に苦労したお話しをしたが、実は犬よりもっと厄介な動物がいる。 それは純真無垢と云われている「キッズ」である。正直なところ彼らが天使ではなく悪魔の使いに見えることがある。生来的には愛らしいが、ときに辛辣であり、残酷であり、挙げ句の果ては当てにならない。 下校時間な…
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托鉢の風景・その3

梅を見てゐる場合ではないのだが 玉宗 托鉢をしていて困ることがいくつかある。そのうちの一つ。それはトイレである。 出掛ける日は朝から水を余り飲まない様にはしているが、それでも冬場は半日も経てば尿意をもよおし、下半身が先行して歩き出す。夏は夏でがぶがぶ水を呑まなければ、熱中症で倒れないとも限らないし、年齢的にも…
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托鉢の風景・その2

僧一人木の芽山より下りて來る 玉宗 托鉢は遊びではない、というお話し二つ。 「方丈さんは俳句をしているんだから、托鉢しながら一句が浮かぶんだろうね。いや~ 風流なもんだね。」 確かに俳句手帳を袖に潜ませて歩いていた頃もある。しかし、今ではそんなこともなくなった。能登半島地震復興勧進托鉢ではそんな余裕…
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托鉢の風景・その1

雪解けて壁に窶れし頭陀袋 玉宗 托鉢をしていると様々なものをいただく。基本的にはお金をお布施して頂くのだが、偶にお米。特に農家では玄関口に立つと米櫃から椀や升に一掬いして頭陀袋や専用の袋に入れてもらったものだ。米托鉢を目的に歩く場合はその用意もしてゆくのだが、忘れて出かけたりなぞすると、頭陀袋一杯に何キロものお米を…
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参道補修作務

如月やときどき妻に叱られて 玉宗  お寺の庫裏の玄関に続く参道(短いながらも・・)には飛石がべてあるのだが、隙間があって参拝者の歩行に不便であることあきらか。ということで、試された方もおられるかもしれんが、雑草対策をも兼ねた「固まる土」を使用して補修することにした。 この手のことは私より夫人の方が余程蘊蓄もあ…
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永福寺の桜

震災を共に生きたる桜かな 玉宗 永福寺の桜・染井吉野が輪島市の『景観重要樹木』に指定された。 写真は十年ほど前のものだが、ここ数年花数も少なくなって、風前の灯感を漂わせていたので、世代交代の若木を植樹しようかと思案していたところに今回の市役所からの誘い。夫人の要望もありご提案を受け入れた次第。 この…
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草摘みのこころ

草を摘むほかに用事もなかりけり 玉宗  蕗の薹を摘みに總持寺祖院の裏手にある小川べりをあるいた。谷川べりの山気はまだ頬に冷たい。  蕗味噌にするには薹が立ち過ぎてもいけない。開くか開かないかの蕾が良いようだが、それを見つけるのがなかなか難しい。というか、タイミング、出会いだね。お山の恵みを戴くのだから盗人根性丸出…
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苦楽の種?!

パンジーの裏が表であるやうな 玉宗 「人生に苦労の種は尽きない」というような言葉をよく耳にします。 この世に生まれ、ひとり立ち出来るまでは勿論のこと、家族や社会人として生きてゆくことの中にも数え切れないほどの「苦楽の種」が現れます。 然し、本来「種」には「苦楽」の色など着いていないのではないでしょうか。 …
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海の記憶、空の記憶

海の記憶空の記憶や三月来 玉宗 玉宗 三月である。 一般社会では卒業、入学、進学、就職、転勤、退職等々、出会いや別れがあり、期待と不安にゆれ動きながらも、いずれもが新しい日々への飛躍の一歩である。修行道場である僧堂でも送行する者と上山する者が山を出入りする。 そして、三月は震災の記憶が蘇える季節でもある。 能登半…
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「寺報・三月号」 法輪山興禅寺/鳳来山永福寺 

「寺報・3月号」 法輪山興禅寺/鳳来山永福寺      私はよく「越える」という言葉を使います。 例えば「煩悩を越える」と言った場合、煩悩を一方的に否定するのではなく、かといって肯定するのでもなく、先ずはその煩悩なるものの実体を見極めることが大事です。 煩悩と向き合い、その正体を明らかにすることから「越える」という飛…
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いのちやわらかく 

菜の花やわだかまりなく空晴れて 玉宗 仏道はないものねだりではありません。自分さえよければそれでいいといった生き方とは志す方向が違うものです。それは「無常」や「苦」という現実を克服するために精神の柔軟さを獲得しなければならなかったということでもあります。 常ならぬものなど一つもありません。避けられない生老病死にジ…
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新到さん、いらっしゃ~い!/その3・挨拶を覚える

僧となる不思議な月日朧にも 玉宗  明日がない筈の旦過寮での生活も何日か続き、それにも慣れてきた頃、突然、古参和尚から次のような事を告げられる。 「明日、入堂するぞ」 「入堂」とは坐禅堂に入ることである。暫到の間は「外単」と呼ばれる堂の外側で坐禅をしていたのだが、入堂すると自分の坐る場所が畳一枚…
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新到さん、いらっしゃ~い!/その2・じっと我慢の子であるべし

少しづつ頭よくなる木の芽どき 玉宗  立ちッぱなしの苦行から開放されて「旦過寮」に通される「新到」さん。思わず心の中で「やれやれ」と安堵する。 然し、まだ正式に安居を許された訳ではないので、「暫到・ざんとう」さんとも呼ばれる立場であることを忘れてはいけない。お客さんでもなく、身うちでもない、変な感じ。「おい、…
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「新到さん、いらっしゃ~い!/その1・大きな声で存在を知らしめる」

新到の荷を枕辺に朧月 玉宗 宗門には本山のほかに日本国内や海外にもいくつかを合わせて三十ほどの修行道場がある。僧堂とも叢林とも呼ばれる。叢林とは樹木が叢がっている林という意味だが、修行僧が和合して一つの所に住んで、樹木のように静寂にまっすぐ修行に励んでいる場所を意味している。禅林とも栴檀林などとも称される。 …
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良寛という生き方

堅香子の影と寄り添ふ五合庵 玉宗  良寛さまの周りにはいつも子供たちがいたという。朝も夕方も懐くようにやってくる。それを一つも煩わしいと考えずに子供たちと一緒になって遊んでおられた。また、村人が畑を手伝ってくれと言えば、畑の中に入った。時には草引きもし、家の手伝いもした。月夜の泥棒に黙って蒲団を盗まれたり、墨が…
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いのちの尊さに生きる

生きものの脛に傷ある涅槃かな 玉宗 女性差別問題で揺れている日本社会だが、仏道にあってはどうなんだろう。ひと昔前までは尼僧さんは格のあるお寺の住職になることができなかったことを宗門人ならば知らぬ人もおるまいし、知らぬふりをすることもできまい。現代でも宗門に於ける尼僧の相対数は低いが、今では愛知専門尼僧堂堂長でもある青山…
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足の裏で考える

犬ふぐり徒食の影がたもとほる 玉宗 前大本山總持寺貫首・板橋興宗禅師が金沢大乗寺住職であった頃、本堂の露柱に「足の裏で考える」という貼り紙があった。マッサージ業界のコピーではない。仏道が命の実感・身心学道に参究することに尽きるという禅師様ならではの修行者への指南であると受け止めたい。   われわれは「あたま」が…
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涅槃会のこころ

涅槃図の月が最後に巻かれけり 玉宗 釈尊涅槃の日を慕ってお寺では涅槃会法要が営まれます。 僧堂では涅槃会接心を行っているところもあり、坐禅を以って報恩の誠を尽くします。一般のお寺では涅槃会法要を催し、涅槃団子を撒いたりして、お釈迦様の遺徳に思いを馳せ、お粗末な自己の生き方を新たにする機縁ともなりましょう。 仏教…
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コロナ後の社会?!

春立つやふらりと風の吹く方へ 玉宗  コロナ発生直後からコロナ禍での社会の変化、価値観の変質が指摘されている。命あっての物種を実感せざるを得ない状況に遭遇して、人はだれでも最低限必要なものを選択し、生きるのに無駄なものを省こうと本能的に身構える。それは一見至極当然な振る舞いに思えるが、生きるのに最低限必要なもの或いは無…
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仏道という生き方

魚は氷に仏弟子山に上りけり 玉宗 市内にある福祉施設から職員を対象にした法話の依頼があった。世に福祉産業といった名称があるのかどうか存知しないが、時代の要請のしからしむるところといった観が否めない。常識化していると云ってもよい。人間社会には様々な生き方があるのが現実である。その道に入ったならばその道の作法、宗旨、規…
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出会いという宝 

春風やまだ調はぬ空ながら 玉宗 人を変え、人を育てるもの。それは出会いではないでしょうか。 出会いは人ばかりではありません。生老病死、天災人災、吉凶禍福、毀誉褒貶等々、様々な出会いがあり、そのいずれもが選ぶことができないものばかりです。 然し、本来、選ぶ必要もなく、全てがわたしの学びの糧、全てが私の鏡であること…
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愚のごとく生きる

仏弟子はほとんどをのこ茎立菜 玉宗 禅宗のよく読誦する「宝鏡三昧」というお経の一節に次のようなものがある。 潜行密用 如愚如魯 只能相続 名主中主 「潜行密用は愚のごとく魯のごとし。ただよく相続するを主中の主と名なづく」 愚かさとは何か。それは自己を知らないことに尽きる。そして仏道に於ける「愚」とは何か。…
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優柔不断ってどうよ?!

忠言も讒訴もならず着膨れぬ 玉宗  民放テレビで日本の首相の優柔不断ぶりを検証するが如き番組があった。出席したパレラー?コメンテーター?の全員が現今の首相を優柔不断とは認めてはいなかったようだが、テーマを主導したメインの心理学者が如何にもステレオタイプなものの捉え方であるのが少し気になった。心理学だけではないと思うが、凡そ「学…
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人間らしさを越えて

  早く寝ろ風邪を引くなと喧しき 玉宗 人のこころには人様に言えない闇もあり、光りもあり、善もあれば悪もあり、清もあれば濁もあります。 仏道は人間らしさを否定はしませんが、人間らしさの向こう側とでもいうべき、人間らしさを越えたところを向いて生きようとしているものと思っています。現実を尊重しつつ現実に執着せずかろやかに生…
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托鉢の風景

托鉢の笠に窺ふ寒怒濤 玉宗  今日は輪島市の海岸沿いの光り浦地区を歩いた。 これが能登の冬の海の正体。こんな日に托鉢もどうかとおもうのだが、しやうがない。ふと、こんな風景の中で道元さんも瑩山さんも托鉢したことはないだろうなあといった感慨が湧いた。一方で、衣を汚したり濡らしたりするような場所や日に托鉢するものでない…
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「たかが俳句、されど俳句」再考

腸の一句もならず寒かりき 玉宗 俳句に手を染めて三十年以上になる。 この間、俳句を引き摺り、俳句に引き摺られてきたようなものだが、最短定型詩が自己表現の一手段であることを疑ったことはない。勿論、それは私の作ったものが作品としてすぐれているか月並みかということと別問題であるが。ご覧の通りの、殆どは凡百の類想の山であ…
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鰯の頭?!

寒き世に一人鈴振るばかりなり 玉宗 寒行托鉢もあと十日ばかりとなった。先日は門前から總持寺祖院僧堂の大衆一行が輪島市内の托鉢に来た。今年はコロナ感染拡大防止ということで輪島以外への遠鉢は中止となっている。例年点心供養をさせて貰っているのだが、世の会食自粛に倣って施主家での点心も中止だという。寒行で冷え切った体に施主家での点…
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命の尊さ 

いのちほどの火の恋しさに寄り添ひぬ 玉宗 わたくしどもは、社会という謂わば横軸の世界に生きています。政治経済から災害からの復興、コロナ禍への対応といったこともそのような世界での支え合いとも言えましょう。 そして時にそのような地平座標軸でのいのちの価値、評価、相対的意義づけとでも言うべきものを与えられたりします…
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知足のいのち

来た道を帰るばかりぞ寒くとも 玉宗   「小欲知足」という仏教用語があります。 欲少なく、足ることを知る。これは他人事ではなくわがいのちの戴き方を言っています。現状に我慢しろといった浅い話ではありません。仏道とは言うまでもなく一人一人のいのちの話です。その深さと豊かさ、いわば縦軸の話しです。そこには、ものたりないと…
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一歩一歩の人生

水っ洟ここにも一人ほとけの子 玉宗 寒行托鉢も中日となり折り返し。 今年は例年になく厳寒の寒中となって頗るやりがいがあるとも言えます。今のところ還暦を疾うに過ぎても歩けていられることに感謝ですな。お命様に合掌。負け惜しみではありません。雪の中、吹雪の中を一歩一歩を踏みしめていく托鉢。それがそのままわが人生であることを…
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初心よければ

  蝋梅のひらかむとしてにほひたち 玉宗 諺に、「終わりよければすべてよし」とあります。 本来は、ものごとは最後の締めくくりが大切であるということのようですが世間では些か趣を異にして結果がすべて、取り繕ってまでしても結果の見栄えの良さを問題にしているかのようでもあります。 しかしそもそもが、何を以…
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仏の日

墓石の雪をのけてや仏の日 玉宗    大本山總持寺祖院管理の亀山墓地には、二祖峨山禅師並びに五院輪住大和尚、そして明治期以後の独住禅師卵塔が建ち並んでいる。 先日、興禅寺の朝の雪掻きを済ませてから、供花を買って亀山墓地に新基建立された本山独住二十三世板橋興宗禅師の卵塔をお参りした。墓地正面の山門を入って左側。禅師の…
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無心に遊ぶ

福笑ひ笑へぬ顔となりにけり 玉宗  М1とかいう漫才を競う催しで優勝したなんとかという二人組の演技が漫才であるのかないのかといったその後の社会の反応が取り沙汰されている。漫才の定義があるのかないか、あるようでないようなことを云う識者や当事者もいたりして、問題があるとしたら那辺にあるのかないのか。どうでもいいような話では…
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祈りの力

雪掻いて無駄骨らしきもの残る 玉宗 寒行托鉢も七日を過ぎた。 礼年にない大雪で雪掻きもなんだが、托鉢して歩くにも難儀する。昨今は雪を解かすのに道路に融水装置が付けられるようになった。車には雪が解けて結構なことだが、歩道を歩く托鉢僧にはシャーベット状に融けた雪水は思いの外に冷たく、まだ裸足に草鞋で雪の上を歩いている方が…
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