曲がりまっすぐ

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かんばせに朝の光や夏めきぬ 玉宗

道元禅師様の示された『衆寮清規』『眼蔵・重雲堂式』などにその規範が示されているように仏弟子は基本的に共同生活である。「和合衆」とも呼ばれる仏弟子の日常は、造作なく「道」そのものであり、少なくとも、そちらの方を向いていこうとしているものでなければ意義が無い。

僧堂を「叢林・そうりん」とも言うが、お互いが切磋琢磨し、まっすぐ天へ成長を続ける木々のように、個に徹しつつ、互いを邪魔にしない、お互いのありのままを尊重し合う、そのような「行」の日常が望ましいとされている。それは僧堂だけではなく、お寺の住職となっても同じく問われ続けられる仏弟子としての生きる姿勢なのであろう。

「望ましい」などとしたり顔の物言いをしたが、私自身を顧みれば、慙愧に堪えない道程である。あらぬ方へ勢い余っていってしまったり、果ては壁にぶつかり窮し、窮しては壁をぶち壊そうとしたり、飛び越えようとしたり、廻り道をしたり、道草をしたり、行ったり来たり、死んだふりをしたり、、、、、よくもまあ、今日までお坊さんの末席に座らせて戴けたものだと、我がことながら、他人事のように感心している始末。

そのような私の雲水時代に、あるお寺のご住職が見るに見かねてか、呆れてか、出来損ないに掛けてくれた言葉を未だに忘れられない。

「玉宗さん。あんたも一筋縄ではいかないお坊さんのようだが、曲がり真っ直ぐ、ということがあるからね。あきらめちゃ駄目だよ。あんたはあんたの歩幅で歩いてけばいい。どっちを向いて生きてゆくのか、それだけは忘れないようにね。」

若かった私は、「ん~、なんか不吉なことを言うなあ。曲がってまっすぐ?あり得ないだろう、そんなこと。」
仏飯を戴いて約三十年。彼の老師が謂わんとされたことがしみじみ納得させられるし、納得せざるをえない生き様である。

どっちを向いて生きて行く?

仏様の方に決まっているのだが、歩いてきたわが道を振り返ってみれば、彼の老師が言われた通り、「曲がりまっすぐ」と言えなくはない。しかし、私の歩みが仏道の正道であったかどうか疑わしい。どちらかといえば、この世界でも落ちこぼれではないかと思うことがよくある。(檀家さんには申し訳ないのだが・・)。少し甘く見ても、アウトサイダー的、みたいなところだろうか?

生身の、五体をもった人間が、ちっとはマシな生き方をしようと、髪を剃った。そいうことで勘弁してもらえないだろうかと、我ながら世を憚っている節がある。
人様を救えるかどうか、救いとはなにか、道を生きるとはどういうことか。そんな自問自答を繰り返しながらこの先も、もう少しお坊さんの道を歩んでいくのだろう。
道そのものに導かれ、透かされ、引っ張られ、引き戻されて、迷わされ、悟らされて、、、、そのような「今」を重ねる日々。それはつまり、死ぬまで「曲がりまっすぐ」歩んで行くにちがいないということでもある。


「なにゆえに家を出でしと折りふしはわが身に問へよ墨染の袖   良寛」








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この記事へのコメント

湘次
2011年05月17日 23:34
こんばんは
 「曲がりまっすぐ」・・・名言かも知れませんね。
yoshiyoshi
2011年05月18日 04:57
寄り道が何より楽しえごの花  よし
市堀
2011年05月19日 09:54
 湘次さま。
だれが言い出した言葉なんでしょうかね。お釈迦様かな・・・ 

 よしさま。
ん、寄り道が楽しい、人生を言いつくしていますね。何ででしょうね。好奇心が生きる灯なのかもしれませんね。
合掌

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