再生への旅

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zoom RSS 「越える」とは?!

<<   作成日時 : 2018/07/28 04:26   >>

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向日葵の焦がれて已まぬ丘があり 玉宗


私はよく「越える」という言葉を使う。
例えば「生死を越える」「煩悩を越える」「自他を越える」といったような塩梅で、われながら分かったような物言いをするのであるが、さて「越える」とはいったいどんな様子なのか。

「煩悩を越える」と言った場合、煩悩を一方的に否定するのではなく、かといって肯定するのでもなく、先ずはその煩悩なるものの実体を見極めることが求められよう。煩悩と向き合い、その正体を明らかにすることから「越える」という飛躍が可能となるのではないかな。

「あの峠を越えよう」と言う場合、それを成し遂げるには先ず脚下の一歩を踏み出さなければならない。地に足をつけた一歩の積み重ねが眼前の峠を越えることを可能にする。そこには今、ここの、一歩、今を限りと力を尽くしている様子があるばかりであろう。一歩を躊躇ったり、方向性を間違えては峠に至りつくこともできない。それは「煩悩、迷い」に捉われていることにほかならないだろう。「貪り、執着」である。煩悩の正体は「空なる」ものであり、実体のないものに捉われることの愚かさもさることながら、煩悩を否定すること自体も本来的に見当違いであることになる。ないものをどうやって否定することができるだろう。如何にいわんや、肯定をやである。

執着、貪りからは何も生まれない。行き詰まりがあるだけだろう。越えなければならない所以である。というか、われわれの日常の実体はいつも「越えて」いるものの様子、通じている世界の様子以外の何物でもない。生死去来、行住坐臥、屙屎送尿、著衣喫飯。どれもこれも、その実体は理屈を難なく越えて、それそのもの働きをしている。実物はそれそのものであるばかりで、迷ってなんかいない。

人の迷いというも、実体のないものだ。本来、難なく越えているいのちを戴いている。越えているいのちに目覚めなければならない。



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「永訣の朝」

羅を着こなし死出のあさぼらけ

永訣の彼方に夜の短さよ

老鶯の朝にひた鳴く仮寝かな

逝く夏と思ふ棺を閉ざすとき

葬送の列や青田を二三枚

峰なして雲湧く野辺の送りかな

炎天を来て黙々と荼毘に付す

初七日や風船葛花付けて

風凪てぐらりと垂れし芙蓉かな

六道の辻にさながら夕涼み

蜩の寄せては返す潮かな

遺されしものみな仰ぐ旱星

星空へ人を送りて涼しさよ

死ぬる世の我に返るや稲の花



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「ゆれ」

朝顔の絞りを解き始めけり

うつせみや空に祈りの声響く

向日葵や嘆きの壁に影落とし

炎天にひらめく桐の葉なりけり

子を攫ふ遊びありけり稲の花

暗がりに大仏ねまる旱かな

風船葛月に船出と花付つけて

日翳りし風に芙蓉のさゆれかな

山の上に繊月浮かぶ夕焼かな

濯ぎたる水流れゆく夜の底



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「妻」

桔梗やそこはかとなき妻の朝

朝顔の向かうに妻の声弾み

生贄の妻を呼ぶかに草の笛

三界に家なき妻の洗ひ髪

撃たれたる鹿の如くに昼寝妻

ああ言へばこう言ふ妻の心太

よく乾き妻の喜ぶ土用かな

行水の妻の影なり見るに見かねて

妻といふ天の岩戸が端居かな

帷子の妻や遠流の顔をして

二人ゐて妻には妻の夜の秋












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