再生への旅

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zoom RSS 仏道に於ける罪と罰

<<   作成日時 : 2018/07/09 04:52   >>

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桔梗や二人し生きて来た朝の 玉宗

元オーム真理教教祖なる人物の死刑が執行された。
死刑制度には日本でも賛否両論ある。現行では先進国で死刑制度を明文化している方が珍しいらしい。加害者の再生を期した人権、そして被害者や被害者家族の再生を期した人権。どちらも蔑ろにしてはならないのだが、世の中の趨勢、時代思潮といった流れの中で、そのような人権の兼ね合い、バランスと言った力学があるのが実際のところであろう。いつの世にも「権利」「権力」とは「仮のもの」であるというのが真相だ。

他人事みたいに言うしかない私ではあるが、わが身に顧みて、加害者、被害者どちらにも当事者と成り得る可能性の中で生きている我らなのである。仏道はそう諭している。根っからの悪人、根っからの善人。そんなものはいない。
なにがしかの要因、因縁で悪を為したり、善をなしたりする、危うい存在者であるところの人間。だからこその、目覚め。自己の真相、実物への目覚めが求められる。

刑罰と言ったようなことも、人の世の約束事の話である。約束を破ったならばそれ相応の罰を受けなければならない人の世の現実。仏道はそれを否定はしない。否定はしないが、人の世の約束事の地平とはまた違った領域での価値観を言い出さなければならないだろう。

上にも述べたように、いのちの実物に唯一無二の尊さがあるとするのが仏法だ。言ってみれば、人の世の約束事の世界とは実物の世界の話ではない。私に言わせれば妄想の世界の話だろう。自己を偶像化する妄想。正義という妄想。繁栄という妄想。進歩という妄想。地位名誉という妄想。権威という妄想。悟りという妄想。迷いという妄想。善悪という妄想。生死という妄想。争いという妄想。勝ち負けという妄想。有る為しという妄想。すべて実物から遥かに宙に浮いた話ではないか。実物は私の妄想や執着を越えている。執着からは何も生まれない。行き詰まりがあるだけだろう。

破戒とは自己の命を蔑ろにすることにほかならない。世間での罪は仏道的には二重の咎になる。それもこれも、自己の実物に決着が付いていないからである。比べられない、比べる必要も義理もない、自己切りの、天下一品のいのちを戴いて、今を生きている。わたしも、あなたも。やり取りができない大きな世界で生きていることに目覚める。それを持戒とは言うのだ。

そのような、ありのままの自己を受け容れることができないでどうして他者に寛容になれるだろうか。ありのままの自己に寄り添うことができなくて、どうして他者に寄り添うことができるだろうか。

仏道に於ける罪と罰。それもまた空なるものだ。これが政教分離の指定席に追いやられた私という無用の長物の見解である。


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「さらさら」

朝顔やお代はりをして褒めらるゝ

雨ながら星に願ひをさらさらと

涼しさや足の裏吹く風にこそ

夢を見しまなこはうつろ七変化

蚕豆を喰ふにひと手間要しけり

玉葱をごつんと吊るす庇あり

朝に夕に反古となしては散る槿

炎立つグラジオラスの花あかり

気付かれぬ内にとメロン食べ始む

硯海に汀ありけり雲の峰

虹仰ぐ免れ難き顔をして

草いきれ風に生き死に野に斃れ



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「ほとけ」

夏花摘むだけの母とはなりにけり

うらなりの茄子もほとけになる日かな

貧しくとも母は全能ダリア咲く

わらんべの遊べと落つる杏子かな

メロン食ぶほとけの母のお下がりの

嘘つかぬ子の手に渡す李かな

青胡桃空がだんだん深くなり

水臭きほどに捻たる胡瓜かな

鳥翔つとみれば楊梅一つ落ち

九十を過ぎたる母の夏書かな

ほとけ来る賑はひにあり蚊遣香











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