再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 只の人

<<   作成日時 : 2018/09/30 06:27   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


良寛を想へば遠き雁の声 玉宗


今年の春先に長年の夢であった良寛様の隠棲された新潟出雲崎の「五合庵」を訪ねることができた。寺泊にある「良寛記念館」ではなく、正真正銘良寛様が息をされていた国上寺境内にある「五合庵」である。

「焚くほどは 風がもてくる落葉かな」

良寛直筆の、この落葉の句碑が五合庵のそばに建てられている。
五合庵の名は国上寺の客僧萬元が貫主良長の扶養を受け、毎日粗米五合を寄せて頭陀の労を援けたことによって名づけられた。現在の堂宇は良寛在庵時のままではなく、大正3年の再建である。

「いざここに 我が身は老いん 足びきの 国上の山の 松の下いほ」とも詠まれている。


国上寺は真言宗豊山派寺院だが、曹洞宗のお坊さんが真言宗のお寺の境内に庵を結んでいたということになる。良寛様は一応「曹洞宗」のお坊さんに属している。一応と言ったのには、良寛様自身に宗派意識などなかったと私には思えるからだ。昔は今ほど宗派間の垣根がなかったものか、互いの往来が緩やかだったのかもしれない。

それにしても良寛様はその詩文を拝読する限りに於も、、お釈迦様から道元さま、そしてご自身へとつながる仏法の絆、系譜を強く感じてはおられたことが察せられる。そのような一本の道に生きる矜持は感じられるのだが、所謂宗派意識とかセクト根性とか、衆を笠に着るとか、徒党を組むといったことへの関心など持ち合わせておらず、それどころか、そのような世界から離れようとしたご生涯ではなかったのかとさえ思われる。

良寛さまの一念とは、ただひたすら「解脱」することにほかならなかったのではないかと。自己の決着のほかに何の求心もなかったのではいかと。そして、ついには求心さえ抜け落ちた「解脱の人・ただの人」になられたのではないかと思われてならない。檀家制度といったものに縛られることもなく、食べるものがなくなれば山里へ下りて托鉢。道すがら出会う大人に慕われ、子供に囃されながらも親しまれていった解脱の人。大愚良寛。

画像


いつだったか、倅と良寛さまの話題になり、私が良寛さまに憧れていることを承知の倅が、次のようなことを言ってのけた。

「良寛さまって、無責任だよね。妻子もなくて、たった一人で仏道をやり通すんだから」

批判しているのか、そうではないのか、よく分からない物言いではある。仏弟子でもある倅自身も未だ独身である。結婚するつもりもないらしい。彼なりの誉め言葉なのだろう。師匠である私も、それなら大いに頷ける。常日頃から、「私は実用的ではありません」と口外している私である。昨今、世間でも話題にもなった「生産的」といった点では、文字通り「私は生産的ではありません」と言い換えてもいい。

私は一応「出家」ではある。「出家した」と言えば如何にも志あるかの如く思われる向きもあろうが、実際のところは、社会から落ちこぼれたのである。社会についていけなかったのである。社会に見切りをつけたのである。そして、出家したお坊さんの世界に於いても落ちこぼれた類の人間でもある。人並な修行をした覚えもないし、したくもなかった。インサイダーにもアウトサイダーにも徹しきれない。私は徹底して私的であるしかなかったのであるが、そうと言えば聞こえもいいが、実際のところはお坊さんの世界という組織、社会にもついていけず、落ちこぼれたらしいことは確かなようである。この様な生き様はわが俳句の世界にいても同様である。衆を笠に着ることへの拒否反応がこの年になっても半端がない田舎者である。如何にいわんや、実用性とか合理性とか生産性とかが最優先される社会においておやである。

人様が汗水流して働いて「生産や実用」に陰に陽に関わっていることは百も承知である。衆に交わることの意義や愉しみがあることを否定はしない。いずれにしても、それは謂わば、社会という「横軸」の話であろう。嘘も隠しもなく私は横軸からの落ちこぼれである。ついていけないところが多々ある。変な言い方だが、お坊さんであることでどうにか人並な人間であり得るといった感が抜き難くある。近寄りがたい鵺のような社会へ見切りをつけたことへの矜持がある。五分の魂がある。腐っても、宗教者、仏弟子という縦軸に寄り添うことを理想としている人間の開き直りがある。

いのちの尊厳?

だれもが一度きりの儚い人生に、儚い命を懸けて生きている。人生とは竟にその果敢なさを身上としている。人の真心も又、そのような人生の今にしか通じない。仏弟子と言えども否応なく社会に足を踏み入れて生きている。然し、いのちの尊厳とは、横軸に於ける人間評価、尊厳だけではあるまい。いのちの縦軸という一人ひとりに於ける絶対的尊厳、人間評価といったものがあろう。

そこはいのちの実物だけがある世界だ。無心にして素なる領域だ。意味や価値以前の、只の世界。ただの人間。只のお坊さん。そこにしかわが魂の安じるところはない。只管にして無心なるものだけが私を額ずかせる。痛い目に遭わなければ分からない鈍さを持ち合褪せている私。抓れば痛いわが身、わが心を介してしか世界と共感できない私。落ちこぼれの人生の果てに自得した人間観察、人間評価であり、私なりの人生山河の地平である次第。



画像




「記憶」

誰もみつけてくれぬあかるさ草の花

逃げ回る羽根の強さよ稲雀

秋の蜘蛛風に吹かれて月に焦がれて

蟷螂の眼は疾うに暮れてをり

跡形もなき帰燕の空のあるばかり

遠ざかる記憶に鳥の渡るなり

売れぬ詩をくべて焦がせし秋刀魚かな

肉食のうらかなしさよ蛇穴に

落鮎の落ちゆく先や柄杓星

赤といふうら淋しさを曼殊沙華

秋の蝶木漏れ日なして来たりけり

犀川の月夜に酌むや鮴の宿




画像



「よろこび」

新米の湯気によろこび噎ぶなり

抱くほどに面影うすき紫苑かな

仏壇の母のよろこぶ野菊活け

道元忌秋明菊の丈清く

犬蓼や風もよろこぶの原っぱの

鶏頭の憤怒極りなかりけり

どの子にも泣いて喜ぶ栗の飯

夭折の名残り白粉花こぼれ

稲雀よろこび勇み逃げ回る

夜遊びを叱られ鬼の捨て子なる

よろこんでばかりもをれず秋の暮

蟋蟀の漆黒闇に紛れけり











テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
只の人 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる