「眼横鼻直」という生き方
雲水は着の身着のまゝ青葉風 玉宗
「眼横鼻直」とは道元禅師が悟られた世界を表すのに用いられた言葉。
仏法の様子を言うのに、目は横に鼻は直なることを以って足りているということ。
仏法という何かしら有難いものが自己の外に塊のようにあるのではなく、まさに自灯明として自己の分際に明らかなものであるということだ。
あたり前であることを受け入れることは迷っている者が迂闊に言うほどあたり前なことではないという現実がある。皮肉でもなんでもなく、人間社会には迷っていることすら覚醒できないということがよくあるもののようだ。
いつものことだが、仏道はいのちの話のことである。誰のいのちか?それはだれでもない。私のいのちでありつつ、私のいのちとは言い切れない、大いなる働きそのものであり、それをほとけのいのちと言ってみたりする訳だ。
仏道はそのような自己の決着であり、自問自答であり、受け身である。よそ見をせずに真っ直ぐ自己の実相を生き抜く。それを人生の一大事とし、そのような生き方を引っ提げて社会へ還ってゆく。自己に決着できないものがどうして他者と折り合いをつけることが出来るだろうかということだ。ここにおいて、仏道とは竟に宗教と言って聊かも憚ることはない。
ありのままなる、実相の世界に身もこころも任せることを仏道とは言う。それは政治ではない。哲学ではない。倫理でもない。空の空なるかな。畢竟空なり。敢えて言えば、「流れ」そのものだ。
そのような「眼横鼻直」という生き方。「眼横鼻直」という志がある。命、大事に。合掌。
「重さ」
芭蕉若葉し風に重くれ軽みあり
黒南風や誰も覗かぬ井戸一つ
奥能登の空の重さや半夏生
梅雨曇り山鳩含み鳴くばかり
音重く烏賊釣り船の戻り来る
立葵見開いてゐてなにも見えず
ひと昔ほどの重さや昼寝覚
紫陽花の挿木せむとや雨もよひ
瞼重く片白草に雨が降り
月下美人いましもろ肌ぬぐところ
撫子を摘むには心重すぎて
夜の風に靡く篝火虫送り
「いつも」
朝焼の向かうへ牛を売りにゆく
葉洩れ日に青ざめゐたる葡萄かな
来て見ればいつもとちがふ出水川
後追うて走る子亀やパタパタと
昼寝覚めやがて片付け始めけり
釣鐘草いつもと同じ子が通る
雨上り洗ひざらしのダリアかな
羅や淋しらの世に遺されて
雨の日は子どもが来ない杏かな
夜の海に燃ゆる藁舟虫送り
窓開けていつもの夜を涼むなり

「かそけくも」
七月や草の丈にも荒けなく
何を待つ咽喉の渇きや水無月の
死ぬときは息吐くやうに蛇の衣
夏蝶来かろがろしくも余念なく
テーブルに岩波文庫雲の峰
薫風に捲れる白きページかな
遅れてはならじと茅の輪くゞるなり
昼日中寝ぬる幸せかそけくも
白南風や妻にも髭のやうなもの
河骨や水面眩しく弾けては
荼毘に伏す山のしづけさ杜鵑
夕焼を祭りとおもふ鴉かな
風鈴の消え入る夜とはなりにけり
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