俳句鑑賞

IMG_0075.JPG

言霊の石や碑となる秋の風 玉宗

FB上でのお付き合いで、「俳句大学」なるものに毎日鑑賞文を載せることになったので、折々にUPしていこうかな。今回は纏めて四日分。


〇11月2日の投句より

「湯冷めして影の勝手に歩き出す 静代」

「熱を持つ息ひしめきて石榴の実 静代」

その俳句的感性に注目するのだが、まだ俳句という仕掛けを使いこなしていない感じ。もっと言えば定型を信じ切っていない。惜しいんだな。二句ともそれなりにできている様にみえるが、もっと研ぎ澄ますことができそうだ。「柘榴割れ熱き吐息の見え隠れ」なんてどうだろう。

「来し方に過不足あらず放屁虫 たけし」

「ドーナツの穴無限大鳥渡る たけし」

「根の国の扉に隙間ちんちろりん たけし」

いずれも俳諧味があって面白い。「放屁虫」「鳥渡る」「ちんちろりん」という季語の斡旋に俳諧の誠が感じられる。つまり、どれもこれも作者の腸からの声であるということだ。一句の主人公とはわたしであるとはだれもいうのだが、それが借り物であったり、他人事であったり、中途半端であることが多いものだ。文芸には自己の感性を信じる才能が欠かせないものだが同時にまた客観的な眼差しもなくては叶わないものだ。ここにあるのは自惚れではない。信頼できる俳句作者がここにいますね。

〇11月3日の投句より

「白菜の瑞々しさを一夜漬け  正則」

一読、調べもよく句意明解。写生句と言ってよかろう。欲少なく、多くを語らず、言い過ぎもせず好ましい。主観がないわけではない。然し、「瑞々しさを」は作者の感性が捉えたものであり、観念句ではない。

写生、則物具象がわが初学の師、澤木欣一の俳句テーゼであった。それが基本であり、写生は決して冷たいものではない。味気ないものではないというリアリティーの真髄に切り込む志があった。

現代俳句は「写生」が遺物の如き扱いをされている様子がなくもないが、ご存じのように正岡子規がそれまでの月並俳句の革新手法としたのが「写生」である。月並みとはなにか。その当時もそして今も、それは「観念」という狭い世界に蠢いている世界の事だ。

澤木は俳句とは「感性による認識だ」とも事あげしている。感性とは何か。それは命である。眼、耳、鼻、舌、身、意という感覚器官ということ。「観念」は決していのちの全分でも、最優先事項でもない。が、人間は何故か知らんが観念を先立てたり、後追いしたがる癖がある。

写生がつまらないのではない。つまらない写生句があるということだ。観念がつまらないのではない。つまらない観念句があるということだ。月並みとは何か。人はだれも「人並ないのち」を生きてはいない。一度だって生きた試しもない。いつも、今、ここを限りの、自分並のいのちの様子があるばかり。写生とはそのような次第の自己の感性の所産である。リアリテイーでなければならない所以だ。

見るにつけ、聞くにつけ、嗅ぐにつけ、味わうにつけ、触れるにつけ、思うにつけ、しっかり見極め、聞き分け、嗅ぎ分け、味わいつくし、感じ、深く思う。俳句を作る以前の問題がある。勿論、そこには俳句文芸という言葉というもう一つの感性との格闘があろう。なければならない。

そいうことからすれば、掲句には聊か物足りないというのが私の正直な感想かな。それはまさに「瑞々しさ」という言葉の斡旋である。一句の核であるこの「瑞々しさ」という言葉には月並感漂う。謂わば「流通言語」ひらたく言えば使い古された言葉だということだ。だからかどうか、この一句には漬物屋のキャッチコピーみたいな響きもなくはない。

冬の季語である「白菜の一夜漬け」だが、初物なら猶更のこと「瑞々しい」ことであろう。その「瑞々しさ」を「瑞々しい」という言葉を使わないで表現してほしいなあと思う訳である。例えば「嵩張れる白菜をして一夜漬け」とか。

写生は難しい。だから敬遠されるのだろう。俳句大学にも写生俳句は少ないようだが、何度も言うが、俳句の基本である。観念など、いつでも取ってつけることができるものだ。ご健吟を祈ります。

〇11月4日の投句より

俳句大学には様々な結社に属している方、或いはフリーの方々がおられるようですね。文語、現代語、古語などを使う方、使わない方、又は一句の中に混在する方も見受けられます。私は今現在フリーですが、以前俳人協会会員でした。会員ではありませんが、今も俳人協会に属する結社の同人です。他人事のような言い方でなんですが、私は「ことばは生きもの」「ことばも感性の所産」という捉え方をしているようです。文語、古語の魅力も確かにあります。口語、現代表記の魅力もあります。要は一句が有無を言わせぬ、古今東西を絶する優れた俳句でありさえすれば文句はないだろうと言った呑気な、いい加減な、怠惰なところがあります。ので、人様の言葉使いをとやかく言うつもりはありません。自己責任で学び、、作ってください。

さて、前置きはそんなところにして、

「大阿蘇の空の青さや鳥渡る 直」

いつも大柄な写生俳句を志している様に見受けられます。気持ちの良い俳句です。ときに包容力があり過ぎて類想観に見舞われることがあるのですが、まあ、いいでしょう。

以下の句群はどれもいい感じなんですが、「惜しいなあ」という思いも正直なところありますな。

「包丁の刃紋の波や大根切る 正則」

座五が「大根切る」だとちょっとがっかり。「冷やかに」とか「露しぐれ」くらいにずらしたらどうかと。

「行く秋や刺し子に赤い糸使ふ 千秋」

いい感じですね。ちょっと引っかかったのが「行く秋」の「行く」と「糸使ふ」の「使ふ」という動詞。私なら「使ふ」は使わない。「行く秋や刺子に赤き刺繍糸」か「晩秋の刺子に赤き糸使ひ」かな。

「生駒嶺の続けば霧もどこまでも 十河智」

「摩周湖に霧まうまうとすべて消え 十河智」

格調のある句をつくられますな。座五が慣れています。眼前に大景が鮮やかにイメージできます。その力量に感服。「霧も」は「霧の」でもいいかな。「すべて消え」もいいけど、「摩周湖の霧まうまうと天地覆ひ」なんてね。

「小鳥来る郵便受けに華文句集 美音」

季語が惜しいのかな。「来る」と「受け」でまるで小鳥が句集を運んできたかのようなメルヘン俳句。それもいいですけど、なんかもっと、年相応のときめきに敵いそうな季語がありそうやね。

〇11月5日の投句より

俳句は言うまでもなく韻文ですよね。散文でもなく、散文の切れ端でもなく、つまり説明や報告や理屈でもないということが求められていると思っている。何故か。それが俳句というものの思想だからだろう。芭蕉は「言ひおほせて何かある」と諭したとか。

そこには俳諧諷詠に野垂れ死にしてもよいという、和歌の雅や権威に胡坐をかく世界から決別した俳諧の誠、生き方、表現があるのじゃないのかな。だから、俳句表現の真骨頂とは作者が一句の影に隠れているような「何気なさ」であろうかと。

「調べ」「詠嘆」「余韻」「余情」を大事にするということはつまりそういうことじゃないか。575、最短定型詩とは、そんなコアな俳句思想をもった仕掛けであり、まあ、謂わば匕首のようなものか。芭蕉はわが一句はどれも辞世ならざるはなし、といったのではなかったかな。

「首筋の力抜けゆく日向ぼこ 静代」

   何気ない、そしてまたとない発見。

「しがらみはどれも自分史すがれ虫 たけし」

   すがれ虫を配した何気なさ。

「露霜や新聞店の薄明かり たけし」

   何気ない新聞屋さんへのまなざし。

「初冬の犬やはらかく座りをり 秋子」

   何気なく、そしてゆるぎないまなざし。

「ちぎり絵に付け足す絵の具小鳥来る 正則」

   何気なさへの寄り添い。

「料金所前の渋滞帰り花 正則」

   何気なさが光ることへのよろこび。

「双葉菜の畝にかそけき日暮かな 栄太郎」

   何気なさに生きることへの詠嘆。

〇11月6日の投句より

11月5日はわが俳句初学の師・澤木欣一の命日でした。澤木と言えば「写生・即物具象」ですが、それは俳句表現の手段であり、目的でもあったと私なんかは捉えている訳。手段がそのまま目的であり、俳句の楽しみでもあろうかと。絵を描くにあたってもスケッチ力がものをいうと思うのだが、俳句の写生力は眼力もなんだが、言葉という感動や発見をなぞる「線」の使い方が試されているんじゃないかな。ピカソみたいな余程の天才じゃない限り、躊躇なくささっと一度で描き上げることができると思う方が呑気。ピカソだってその最初は写実力、スケッチ力の並々ならぬものがあったことは周知のことだね。俳句も又、言葉を自由自在に駆使するようになるには物に即し感動に即することができる鍛錬が欠かせないのが作句現場の実際のところじゃないのかな。まあ、当たり前のことか。

「工廠の跡の煉瓦や小鳥来る 一鷹」

     主観を抑えた写実が季語を活かしてるのじゃないのかな。

「咳一つして夜空の揺るぎなし 紀宣」

     感動に即して言葉がゆるぎないね。

「父母逝きて窓打つ秋の雨痛し 幸」

    「雨痛し」は主観であるが、一句になくてはならない核でもある。画竜点睛みたいなものだね。

「山装ふ路面電車の城下町 美音」

    これはこれで情景が見えてくる。もっとスケッチできそうだね。上六が気になるなら、「装へる山裾路面電車ゆく」「もみづれる路面電車の城下町」とか。

「秋の山車で行けるところまで  十河」

     なんか、とぼけた感じが水彩画の趣があっていいな。

「どんぐりを受け損ねたり天の吾子 直美」

     ん~、わからんことはないが、いっそのこと生きている者のようにスケッチしてみたら作者も救われるんじゃないのかな。「どんぐりやまだいとけなきてのひらに」とか。




IMG_0214.JPG

「欣一忌」

思ひ出すことのあれこれ石蕗の花

ここに来て色なき風を写生せよ

末枯れのあかるさ澤木欣一忌

嘗て師と写生語りし掘り炬燵

武蔵野の秋の木漏れ日詩を携へ

病床を見舞ふ秋日の窓辺にて

塩田句碑かりがね寒き風吹いて

風木舎の空は遥けき蔦紅葉

行きずりの誰彼遠し夕芒

兜太なく欣一もなく能登暮秋

ゆく秋の何か大きな忘れもの


005.JPG

「梯子」

装へる山裾捲る風のいろ

名も知らぬ茸なれども惚れ惚れす

偶に来る実家の裏の柚の実かな

玄関を開け放したる紅葉晴

蟠る龍の生みたる万年青の実

ひとつではなんだと柚子を二つくれ

どんぐりやまだいとけなきてのひらの

蜜柑ばかり喰うて宿題捗らず

神無月屋根に梯子を掛けるべく

ゆく秋の鴨居に傾ぐ遺影かな

旅をする神の國なり木守柿




この記事へのコメント