俳句鑑賞・その12(最終回)

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托鉢の銭も手足も冷えにけり 玉宗



〇12月17日の投句より

(承前)偶像を排除した、ありのままの世界。そのあっけらかんとしたあかるさ、ひろやかさ、こだわりのなさ、のびやかさ、厳しさ、というようなものがある。そのようなものから、表現と云う一定の距離を保つこと。なぜかそれがこころを癒し、生きる姿勢を正す。それが詩人の社会との関わり方だ。開かれた自己の窓から世界を柔軟に感じ、最短定型をもって表現する。そのために自己の感性を削る。無心に、潔く。それが俳諧のすべてであり、それだけが俳諧の本筋である。(了)

ということで、あっけらかんと潔き句を。

「冬の川水面に空の降りて来し 直美」

水面に空の降りて来しという把握が冬の川らしいね。まっすぐな眼差し、感性が好ましい。見ることはそのまま感じることに他ならないということを教えてくれる。詩人だネ。

「本閉じて茶房の窓に雪を聞く 霜魚」
何気ない眼差しが日常のこころの機微を捉えている。というより、見ようとしたってものの本質は見えないよね。何気ない、無心な感性にものの本質、本情は共鳴するんじゃないかな。一句には「雪」の世界の本情が溢れている。

「水瓶座溢れし酒を熱燗に 正則」
水瓶座という星座から酒があふれ出したという奇抜さが、のん兵衛のどうしようもなさを言い得て可笑しい。のびやかさもまた俳諧だね。無欲でなければできない芸当が好ましい。

「初恋の人は船乗り寒北斗 千秋」
こういうのを一般的には物語性があるというのかな。然し、言葉そのものには既に物語性が多かれ少なかれ備わっているのだから、敢えて言うこともないのではないかな。そんなことより、一句としては「寒北斗」を仰ぎ見ている眼差しが冬の夜空に呼応している冴え冴えした空気感がつたわる。一句に臨場感があると言った方が当たっているのじゃないかな。



〇12月18日の投句より

「たかが俳句、されど俳句」

俳句に手を染めて三十年ほどになる。この間、俳句を引き摺り、俳句に引き摺られてきたようなものだが、最短定型詩が自己表現の一手段であることを疑ったことはない。勿論、それは私の作ったものが作品としてすぐれているか月並みかということと別問題であるが。ご覧の通りの、殆どは凡百の類想の山である。自己表現と簡単に言ってしまうが、その自己がお粗末であるならば、表現という手段・方便も私の身丈に添ったものであるに相違ない。

俳句は自己を語ることではない。何かを感じることだ。日々、息を継いで過ごしてゆくように、俳句という最短定型詩は生まれてくる。息継ぎが浅ければ浅い、深ければ深い感応の世界がそこに表れるだろう。また、過ぎてしまった息が幻であったように、そして、先の息がなければ今がないように、俳句は古く新しく、空しいことがその身上でもあろう。いのちがそうであるように、ときに浅く、ときに深く、ときに新しく、ときにふるく。私のいのちに添った輝きを放つことが俳句の意義であってほしい。

そして、作品に対する自他の評価が表現の洗練を招くように、私は表現することに謙虚であり、精進しなければならない。そして、それはそのまま私が生きることに謙虚であり精進しなければならないことと同じ人生の実相である。表現も人生も、誤魔化しが効かない世界に居てこそ、その醍醐味を味わうことが出来るのだろう。

人様からみて私がどう評価されているか、私の俳句がどう受け取られているか。人の目を考慮しないということが、文芸というある意味の独りよがりの領域には欠かせない条件であることは言うまでもないが、然し、一方に、客観的な目というものも私の中に育てなければ危ういものになることも真実である。人生がそうであるように。目は内にも外にも向けられている。

また、ある種の人達にとって文芸が軟弱な、遊びごと、風流ごとに映っていることを否定はしない。私の中にもそのような故もない僻み、後ろめたさが意識に上ることがある。それは俳諧が本来、そのような世事を棚上げした者たちの賭け事のようなものであったことと無縁ではないだろう。

現代は俳句が随分と持て囃され、世の脚光を浴びている観があるが、一方には俳諧やくざ、という言葉もある。飯のタネにもならないものに浮き身を窶している様は、度し難い風流人と揶揄される条件は十分に備えていよう。たかが文芸の真似ごとが自己の最後の砦と化している悲喜劇。
たかが俳句。そのようなものに恋して身も世もあらぬなどとは口惜しいことではある。自己を買いかぶらないに越したことはないが、されど俳句。恋したものでなければ味わえない人生の醍醐味というものがあるのも現実である。せいぜい、身を破滅させぬようにしたいものではある。私の俳句はそのような塩梅の自己表現であってほしい。それで十分であると思っている。


ということで、俳句を愛し、俳句に愛されているような一句を。

「眠るのも目を覚ますのも時雨にて 双葉」
言い切っているような、いないような。一句にあるこの間延び感、或いは余情なる空間処理は、俳句という省略形式の恩恵を受けての典型である。俳句の構造を信頼しているからこその「にて」止めでもあるかな。

「丸亀うどん私の次は雪をんな 直美」
「雪をんな」という虚に対して「丸亀うどん」というとんでもない実を配した。嘘もここまでくれば実になる。嘘っぽいというのが一番困る。定型詩を信じていなければこんな離れ業はできない。「雪をんな」は歳時記では「気象・天文」に属しているね。丸亀うどんを食べて体が温まった冬の日の一コマ。生き返った思い、まあ謂わば「愛」が「雪をんな」という虚へ寄り添ったということではないのかな。

「山茶花や昔質屋の門構へ 千秋」
型にはまってはいるが何故か捨てがたい。恐らく、「山茶花」という季語、詩語のお陰だろう。一句は季語だけで十分だともいえる。その他は季語の本意を伝えるためのヒントに過ぎないのかもしれないね。ヒントが前面に出過ぎると月並みになっちゃうけどね。いずれにしても写生の目が利いている。




〇12月19日の投句より(最終回)

さて、十一月一日から五十日間に渡って「一句鑑賞」を担当させてもらった。本来のカテゴリーから大いに逸脱し、頼まれもしない俳句論めいた文章などをつけ足したりもした。まさにやりたい放題。

ということで事前のお約束通り、二十日を以てお役御免ということにさせて戴きます。
能登半島地震に被災し、その復興途上の日々から始めたSNSの世界。FBでは毎日十句以上の俳句を更新している。もうかれこれ十年近くなるのかな。よかったら遊びに来てください。
今回の経験は私自身にとって大いに俳句を学び直す機会となりました。とても楽しかったです。学長はじめ会員皆様に心より感謝申し上げます。俳句が皆様にとってより良い人生の杖となり、窓となり、セクシーに生きる力となることを願っています。ご健吟を祈ります。合掌。

ということで、セクシーな一句を。

「小生に愛綴られてシクラメン  直美」
取り合わせだネ。結果として、中七で切れているようで切れていない程度の切れ方。そんな取り合わせ方に見えた。何故かといえば、以下のような理由になる。

「小生」とは男子が自分を指す、へりくだった言い方とある。作者は女性の筈だが、これは年下の男の子に愛を告白されたというようなシチュエーションなのかな。主格がイマイチはっきりしない。

或いは作者が「小生」になりきっての感慨なのかな。どうも、そっちの可能性が高いな。今時は女性でも「僕」という時代だし、作者が違和感なく自分を「小生」と自称していてもおかしくない。

いずれにしても「シクラメン」がそのようなセクシーな(可愛らしい・瑞々しい・魅力的な、謎めいている、向日的、というほどの意味で)情景によく呼応しているじゃないか。

「シクラメンをのこに愛を告げられて」となると切れ方が少し弱まるのだが、「小生に愛綴られてシクラメン」となると切れも深まるように思う。そういう意味では「シクラメン」は中二病的花ではあることを再認識させてくれる。

まあ、最後は大いに誤読してしまったの感が否めないが、これも俳句鑑賞の醍醐味ということで。

それじゃあ、またどこかで。合掌。


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「手」

着ぶくれて猫の手借りにゆくところ

煤逃げもならず子守を任せらる

手のひらに枯れゆく山河ありにけり

日向ぼこ溶けてなくなるやうにして

年越すに妻に奥の手ありにけり

寄り添へるもののかたちに冬日影

托鉢の銭も手足も冷たかり

手を握ることの恥じらひシクラメン

夕食はラーメンにして年用意

皸の手足も親の形見にて

化け猫が手のひら返す寒さかな




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「色」

眠るべくものみな枯れてしまひけり

枇杷咲いてはつきりしない空の色

立ち話もなんです熊も穴に入る

一日があつといふ間に冬景色

一途なる色とうつむく冬椿

米櫃に米を注ぎ足し日短か

冬空の果てなる色となりにけり

糠床のしづかに眠る雪もよひ

宵をゆく人声もなし冬至風呂

埋火や腸寒く寝そびれて




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