一遍上人のことば

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夕風にぐらりとゆらぐ酔芙蓉 玉宗


「生ぜしも独りなり死するも独りなり されば人と共に住するも独りなり」

一遍上人のお言葉です。いのちの実相。それは自己ぎりの世界でありながらも自己を越えたところと切っても切れない世界の様子そのものです。いのちは孤独なものではありますが孤立しているのではありません。存在、そのものが既に「縁」という「条件下」の代物です。

それと共に、抓れば痛いのは私自身であり、だれも私に代って痛がったり、喜怒哀楽したり、諸行無常してはくれません。そのような絶対的断絶のいのちを生きているのも事実です。世界と繋がりながら切れて、切れながら繋がっている命。一遍上人の言葉はそのような不可思議ないのちを生きている人間の、執着なく生きる覚悟を語っているのではないでしょうか。

世に「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言われます。
本来、なんともないいのちを生きていることに目覚めてみれば、執着するべき「わたし」とは如何にもあやふやで、根拠が薄く、取るに足らない、思い通りにならない、虚しい代物であることに気づきます。生きる目的。それは「わたし」の執着の中にはありません。

いのちそのものが「生きる」という目的そのものとして働いています。「わたし」に出来ること。それは、そんないのちを「なぶらない」「捻じ曲げない」といった戴き方をするくらいのものです。それが「信」であり、「人生の一大事」であると言いたい。身を捨ててこそ浮かぶ瀬が、確かにあります。

〈法話集『両箇の月』より〉



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「あだ花」

あだ花に骨身を削り天高し

船が出てしまひぬ秋にまぎれなく

花びらの手弱女なせる芙蓉かな

梨を剥くかひがひしさのまだありぬ

ゆきすぎて引き返しくる鬼やんま

世を捨てゝ世に捨てられて秋簾

昼からは山影となる粟むしろ

食へさうな玉蜀黍をへし折りぬ

獅子独活のあだ花残る暑さにて

語り継ぐ殺人事件花煙草

桃を手にのせれば初心な重さなる

腸のうつろに灯火親しめり


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「男女」

せつかくだからと冷素麺に舌鼓

暇さうだからと雨乞に駆り出されたる

負けず嫌ひな女に惚れる毛虫かな

食はず嫌ひな男に惚れる飛蝗かな

寝くたれの目に露草の飛び込める

生娘に少し難あり灸花

栃の実や猫のふぐりの大きさの

ゆらめける花のかんばせ酔芙蓉

女郎花太夫が花の簪の

さめざめと星の滴り夜干梅




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