清浄なるもの 

IMG_1756.JPG

コスモスに吹く風吾にも欲しいと思ふ 玉宗


曹洞宗ではお便所のことを東司(とうす)と呼称しています。
飲食と排便は貴賤・貧富の別なく神聖にして犯すべからざる命の営みです。この時ばかりは、人間は神様のように油断しています。そのような訳ありの命の現場は清浄(しょうじょう)なる現場でもあります。玄関とトイレと仏壇をみれば、家主の性根が反映されていると言われます。

僧堂では東司を清掃しない日はありません。便器を舐めることが出来るくらいに拭きあげる。朝起きて顔洗うことと同じ意義をもって東司掃除は必要欠くべからざる人間生活の条件です。お便所を磨きあげることは、だれのためでもない、自己を磨きあげることにほかなりません。それそのものに二見があるのではありません。本来、ものはものとしてあるばかりです。

いのちがそうであるように、それらは人の思い込みや価値観以前の法の様子です。なんの手垢も着いていない存在の侵しがたさがあります。それが清浄です。美醜も、煩悩も、悟りも、修行も、生も死も、自他も、刹那も永遠も、時間も、月も星も、草も木も、善も悪も、何一つとして本来清浄でないものはありません。

愚かな私は愚かな私として清浄です。だからこそ、味噌と糞は一緒くたには出来ないのです。自己が自己に落ち着く。それ以外のどこにも仏法の面目はありません。「清浄の位を打す」それが、一事が万事に通じる東司作務の極意であり、生きることの極意ではないでしょうか。『両箇の月』より



IMG_2816.JPG

「ごろん」

暁の鋼の空へ鳥威し

しらじらと妻の二の腕秋初め

夕顔のごろんと赤子眠るかに

コスモスの風に拘りなかりけり

間引き菜のほどなく萎えてしまひけり

秋暑く壁に窶れし頭陀袋

帰るさの蜻蛉の空のありにけり

無花果腫れて甘さうな痛さうな

死蝉の風に吹かるる一遍忌

夕風にぐらりとゆらぐ酔芙蓉

家々に処暑の窓あり灯しあり

能登沖に浮ぶ島影いなつるび



IMG_4780.JPG

「木偶の棒」

露けさに飯食ふ寺のをのこにて

食うて寝て元気な処暑の雀かな

浦波へ神輿担いでゆきにけり

水に落ちれば河童とおもふ胡瓜かな

秋蝶のついて来いとも来るなとも

淋しらのこの指とまれ赤蜻蛉

つくつく法師ほとほと暗きわが血潮

かなかなや飲食ややに疎ましき

着古しをあてがはれたる案山子かな

秋風に木偶の棒とぞ呼ばれけり

その中に知らぬ子ひとり地蔵盆

弟を背負ふ妹地蔵盆



この記事へのコメント