無分別を生きる 

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茄子咲いて今日あることのうれしさよ

子供を見ていると教えられることが少なくありません。子供は今を今として無心に生きているように見えます。分別が足りないことを大人は危ぶみもし、笑ったりもするのですが、そのような大人が分別が過ぎた挙句の煩悩に苛まれて生きているのです。今をまっすぐ戴くことが難しくなることが大人になることだとでもいうような有様です。大人が人生に無我夢中になれないのには、「遊び」に「無心」になれない分別が働いているからです。

過ぎたことをいつまでも引き摺り、まだ来ぬ先のことを引き寄せ、地に足がつかず浮いてしまい、今を蔑ろにする癖。それはいのちを蔑ろにしていることにほかならず、まさに本末転倒です。分別は分別を越えたがっています。仏教では「無分別(むふんべつ)智(ち)」とは「般若(はんにゃ)」ともいいます。いのちは一度も迷わず、無分別に生老病死しています。今に成仏しています。「般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(みつ)」なる所以です。

分別に雁字搦めになったような我々大人ですが、あるがままに、あきらめず、貪らず、追い駆けず、粛々と、こつこつと、無心に、まっさらな今を戴いていくしかありません。それがそのまま人生を楽しむコツでもあります。茄子の花は今日を限りと花を咲かせています。無心なるものの輝きに満ちています。〈法話集『両箇の月』より〉



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「あやふさ」

さやけさに飯食ふことを忘れたる

あす知れぬけふのあやふさ草は穂に

きのふよりけふのたしかさ木瓜は実に

どうしろといふのかけふもつくつくと

ながされてゆくのねけふもかなかなと

解夏の僧らしきがレジに並びをり

秋蝉のこと切れてゆく螺子緩み

病人じやないけど美味い葡萄かな

肉食のうら淋しさをいぼむしり

秋風の六文銭や地蔵尊





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「浦」

ゑのころも大ぶり能登も外浦の

小鳥来て七浦岬に羽休め

稲架組むや紺深めゆく能登の海

島へ渡る処暑の旅路や舳倉海女

秋潮の溢れ砕けて鴨が浦

傾れ咲くいらくさの花光り浦

能登沖に垂るる雨脚小豆稲架

蜑の神送り送られ秋祭

浦かけてひた寄す秋の潮かな

胡麻咲くや苫家を望む山岨の

島の神去りてさびたる秋の浜

浦々に月の回廊荻すゝき


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