禅的信のありどころ

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昼寝覚め生きた心地のしてならぬ 玉宗

「仏法の大海は信を以て能入と為す」という言葉があります。

「信」は私が世界を受け入れる為の最初の関門のように考えられています。つまり、私の側の都合やチャンネル操作、自律が問われているものの如くです。しかし本物の「信」とは、「法」という「向う側の都合」を全て受け入れて生きている今の事実のことではないでしょうか。

生まれて、生きて、死んでゆくという流れの中で、ときにその自然さを受け入れることができないという人間の悲劇があります。「今のこの命のまるごと」を肯うことができない私がいます。自分の都合通りに行かない世界への歯痒さ、苛立ち、公憤。

しかし、生まれて来たことも生きていることも、老いも病も死んでゆくことも、すべて私の都合ではなく「向うの都合」、つまり「いのちそのものの都合」ではないでしょうか。人生とは「向うの都合」への答えとして生きているものの如くです。私が生きるという事実は「信じる、信じない」という話ではありません。「自己を知ること、生きること」に「信じる信じない」などというこちらの都合、作為は無用、邪魔なものではないでしょうか。私の「信」などというものは本来ありません。強制など論外です。

「世界と共にある自己、自己と共にある世界」を知り、生きる切るには、「向う側」からの「信」をまるごと抱え、身も心も仏の方へなげれて行くしかありません。私は「法」の「信」を今、ここに生きています。  〈 法話集『両箇の月』より 〉


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「草」

手習ひの初め大文字草の花

女郎花ほどは目立たぬ男郎花

風なくてコスモス手持ち無沙汰なる

だれも褒めてくれぬ背高泡立草

じやらじやらと猫もよろこぶ草の穂ぞ

水引の一線花を連ねけり

鷺草の妖しき花の白さとも

父帰る盗人萩の実をつけて

竜胆の紫濃ゆき山路かな

雨籠り風籠り萩うねりけり

草薙ぐやそろそろ稲を刈る頃ぞ



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「二人」

あさがほや性懲りもなき人生の

秋めくやなにもなかつたことにして

生きて来た二人の月日さやけくも

添ひ遂げるつもりの夫へ梨を剥く

野晒しのこころに風や秋薊

蟷螂の生まれながらに身寄りなき

而してつくつく法師二人きり

露草や涙ながらに生きて来て

空の果て地の果て秋の雲の果て

夕餉まで少し間のあり菜を間引く

蜩や為す術もなく日の暮れて

ちんちろりん二人ぼつちの窓明かり

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