無心に生きる

コスモスを吹く風だれも咎めざる 玉宗
気持ちよく死ぬ為には気持ちよく生きるしかありません。
「気持ちよく生きる」とはどういうことか?自分が気持ち良ければそれでいいのか?結論を言えばそれでいいのだと思います。問題はその自己の何たるかです。欲望に振り回される自己。そのような自己の「気持ちのよさ」とは一過性のもの。つまり苦の種になるばかりです。そうではなく、自己を調えること、よく調えられた自己、よく忘れられた自己。それこそが気持ちよく生きる妙術・秘訣であると先人は教えています。
自己を調えるとは他を受け入れ、活かすことでもあります。私さえよければいい、という欲望の充足に余念がない生き方とは対岸にあるものです。無心に、きれいさっぱり力を尽くして、心を配り、身を配り、心を施し、身を施す。そこには余念なく今を只管に生きる命の充足があります。「無心」とは「大心」に等しいものです。
貪りの世界にあるのは「気持ちよさ」ではなく「閉塞感」ではないでしょうか。自分の都合や思いを先立てない生き方。そのような「気持ちよく生きる」先の彼岸にある「気持ちよい死」。それが詭弁ではないことを先人の生き様、死に様が教えてくれます。
コスモスの花は無心にひらき、無心に風にゆれ、無心に蝶を呼びます。秋の爽気に彩りを添えてくれます。どう生きても一度限りの、儚いいのち。嘗てない一度きりの人生であるからこそ「気持ちのよい生と死」を約束されているいのちであるのかもしれません。
〈 法話集『両箇の月』より 〉

「風の秋」
僧となり色なき風を纏ふかな
秋海棠つまくれないの花灯し
秋風やわが身ながらも懐かしき
椋鳥の潮をなして空覆ひ
風のいろ雲の色にも能登素秋
鳳仙花母が迎へに来てゐたる
淋しらのいつか来た道風の秋
稲雀瑞穂の国のおこぼれに
ゑのころや草は気まぐれ風まかせ
蓼の花叶はぬ夢を咲かせけり
秋桜風を嫌がるふうでもなく
鳥影や秋夕焼の彼方へと

「ちらほら」
朝寒の手が伸び枕引き寄する
老いといふ旅を敬ふ日なりけり
葛の葉に埋もれさうなる能登暮秋
佇める影もちらほら秋彼岸
栗飯を温め直す留守居かな
鳥声や山の木天蓼実となりぬ
冬が来る前のしづけさ蕎麦の花
風に乗り雪を迎へにゆくところ
暮れやすき人の世雁も渡るころ
だれ待つとなけれど秋のゆふまぐれ
外に出ればすでに夕暮れそぞろ寒
一人夜の酒を温めむ人肌に
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