旬を生きる 

IMG_2220.JPG

謎解けぬままに老いたる木の実かな 玉宗 

       
 不思議なもので季節の移り変わりとともに旬の果物が食べたくなる。そして旬を過ぎたものは食べたくなくなる。
この間まで西瓜が食べたくてしょうがなかったが、今では西瓜を食べる気がしないし、食べている人に嫌悪感さえ抱きかねない。昨日はなんだか無性に葡萄が食べたかった。そろそろ柿の顔を見たくなってきている。

 果物にも本来「旬」がある筈だが、年間を通じて食べれるようになったものも少なくないのだろう。海外のものが輸入されてもいるのだろうから、今更「旬」に拘るのもおかしいことなのだろうか。「旬」の果物を食べたがる私などは「古い人間」か「田舎者」の部類に属するのだろう。

 自然は季節の摂理に順じて実ったり実らなかったりしているだけで、人間を飽食させたり飢餓にさせたりする善意や悪意があるとも思えない。自然は自然に随順しているにすぎない。人間社会は栽培や保管技術の進歩や流通を整備させ、その生産物である果物もまた世界を席巻し、自然を席巻しようとしている。

 「消費者」とは実際のところは「食べさせられている」「消費させられている」というのが真相のような気もしないではない。飽食の時代と呼ばれて久しい日本であるが、果物もまた例外ではないのだろう。自給率のことはよく解らないが、飢餓に苦しんでいる民族もある一方で、作り過ぎたり、売れなかったりして捨てられたりする食料も半端ない現代日本。メタボリックシンドロームなどといった笑うに笑えない人類病が蔓延しようとしている。

 そのようなことどもを思えば、飢えを知るからこその飽食なのかどうか一概に言えそうもない。意外と飢えを知らない、飢えの幻影に怯えての過剰生産であり、過剰消費であり、飽食なのではないのか。

 足ることを知らず、明日の事を思い煩うことを止めない人類。賢いのか愚かなのか分からなくなる。思えば、ゴキブリより逞しく、始末の悪い生きものなのかもしれない。食いしん坊の私が嘆いても説得力がないのではあるが。

 いずれにしても、仏道は今という「いのちの旬」を引っ提げて生き抜こうとするものだ。気持ちよく生きるには旬を生きなければならない。気持ちよく旬を病み、気持ちよく旬を老いて、気持ちよく旬に死す。無心にして旬なる諸行無常。無心にして旬なる生老病死。本来的に足りているいのちの様子がある。それを仏法という。


IMG_5186.JPG

「棒立ち」

柿咥へ鴉が飛んで行きにけり

もみづるや傷を舐めれば甘かりき

落穂咥へて鎮守の杜へ飛び去れり

棒立ちになればずり落つ秋の雲

また明日指切りげんまん蜻蛉と帰る

少し固いが敬老の日の半殺し

菊を喰ふもつてのほかの輩なり

悪い子はいねえよ夜のきりたんぽ

芋煮会酔へば訛りのとめどなく

ふり向いちやならぬ蚯蚓の鳴く夜かな



IMG_2299.JPG


「配流の地」

蕎麦咲いて根雪の里の白さかな

もみづるやこれより氷見へ峠越ゑ

花とひらくアヒルの口のオクラかな

ここもまた配流の地なり実むらさき

小豆稲架平家所縁の地なりけり

しづけさに遠くが見ゆる紫苑かな

生き延びし平家落人虫しぐれ

浦波に釣瓶落しや能登鹿島

奥能登の大谷峠夜霧濃き

馬緤は月の潮騒椿の実

籾殻焼く煙り影なす浦月夜




この記事へのコメント