秋果のこころ

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柿を剥く母を見てゐてこころ足り 玉宗


 輪島の永福寺にはときどき珠洲から車で果物の移動販売をしているおばさんがやってくる。自家生産のモノばかりで、寺族もお気に入りで、いつも来るのを待ち侘びている。先日は今年初めての柿を積んできた。 

 秋の果物にはいろいろあるが、私の生まれ故郷である北海道に柿はなかった。柿は青森が北限なのではなかろうか。内地へ修学旅行に行った時、汽車の窓から実のなっている柿の木を眺めたときは、日本の原風景を見たような感動すら覚えたものだ。
「やっぱり、北海道は和人の植民地なんだよな・・・」

 柿の木はなかったが内地の親戚から毎年木箱で林檎より少し早い時期に送られてきた。逸る気持ちを押さえながら木箱の蓋を抉じ開け食べようとするのだが、母に窘められて先ずは仏壇へお供えする。それでも卑しい子供だった私は、こっそりとまだカチカチに固い柿を掠めてはがりがりと貪り食っていた。まさに山猿である。それでも母は叱りはしなかった。皮を剥いては子供に果肉を食べさせて、自分は皮を食べるような母だった。

 柿の後は林檎が木箱で送られてきていた。確か「ゆきのした」と云う名前の林檎があったのを覚えている。今出回っているものより甘くはなかったのではなかろうか。昔の林檎には甘酸っぱさがあった。いつの間にか林檎からは酸っぱさが消えてしまった。

 食べ尽くし空になった柿や林檎の木箱を貯めて兄と二人でベットを作ったりしたものだ。勿論、机にもなった。
その外に秋の果物と言えば裏山で採った山葡萄、梨、猿梨(こくわの実)、栗、といったところだろうか。柿は秋、林檎は秋から冬に掛けて、蜜柑は冬の食べ物というイメージが濃い。

 秋の果物だけではないが、季節になると自然と旬のものが食べたくなるし、季節が過ぎると食べたくなくなるから不思議なものだ。否、それが自然なのだろう。柿、林檎、蜜柑、葡萄、等々、季節のものを食べさせてくれた親に今更ながら感謝している。

 林檎もそうだが、果物を食べている人間にはどこか隙がある。母にもそれはあった。子供ながらにそんな母の人間らしさが嬉しくもあり、可哀そうでもあった。父は余り果物は好きではなかったようだ。焼酎があればあとは眼中になかったのだろう。

果物を囲んでいる家族団欒の風景が私にもあった。神様との約束を猶予されたような、勝ち誇ったようなひととき。秋果という神の智慧を頂戴しているような油断のひととき。そして、あの果肉の冷たさは、家族というものの血肉の切なさに通じている。


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「同胞・二十句」

もみづるや同胞はみなちりぢりに

ふるさとに雪の便りやおんこの実

謎解けぬままに老いたり木の実落つ

山葡萄採つてくれたる兄も亡し

幸うすき妹一人草の花

姉に手を引かれしことも行く秋の

犬蓼や大風小風どれも風の子

呼ばれたるごとく千草に屈むなり

団栗をひろふよ母が喜ぶなら

今もなほ泣き虫子虫

脛に傷膝に切り傷露葎

馬鈴薯を馬の糞ほど食へとこそ

厭になるほど南瓜を喰うて育ちけり

蓑虫やわれも鬼の子仏の子

家々に夕餉の灯り石蕗の花

残る虫火宅の闇に深入りす

働いてばかりの母へ釣瓶落ち

地虫鳴く夜の耳掻きしてゐたる

温め酒親を亡くしてこの方の

秋深く夜爪を叱る親もなし



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「而して」

能登行きのバスの窓より秋惜しむ

コスモスは淋しき花ぞ何処へもゆけず

銀杏が落ちるぞ口を閉ぢなさい

座布団を枕に秋の昼寝かな

白衣なる秋明菊の眩しさよ

秋蝶の翅を閉ぢたり眠るべく

秋麗を持て余しをる尻尾かな

而して腹を空かせてゆく秋ぞ

どちらかと言へば梨より洋梨が

水漬きたる庭の木賊を刈りにけり

蛤となりて眠れる雀かな

掃き寄せし落葉の中に鬼の子が

来た道を帰るばかりぞ秋の暮

齧りつく歯力もなき夜寒かな



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