捗らぬ終活

捗らぬ終活酒を温めむ 玉宗
昨日は思いがけないことがあった。
倅が私と夫人の誕生日を纏めて祝ってあげるということで、市内の予約制で評判のイタリア料理店で夕食を共にした。初めてのことで何か魂胆があるのかと一瞬悪魔の囁きが聞こえたのだが、それは杞憂で、純粋に両親の誕生会をしてあげたいという思いであることは日頃からの言動で察してはいたのであるが。親を思うこの優しさが仇にならなければとまだぞろ心配したりする。それにしても、總持寺祖院に出仕しているとはいえ、少ないお手当を戴いていることは私も経験済みであるので、無理をしているのではないかと財布の心配をする親ではあった。
親でもあり師匠でもある私も成し得なかった、黙って十年の安居修行を続けている弟子である。わが子ながら、わが弟子ながら頭が下がる思い。三十一歳になったばかりだが、そろそろ伴侶を見つけて欲しいとは夫人も同様の願いではある。余り差し出がましいことをしてもいけない領域ではあるが、親亡きあとを一人でやっていくことになるなんて、聊かならず可哀そうすぎるという思いが私にはある。
私自身が最近とみに「終活」ということを意識するようになった。生まれたものは必ず死ぬということからすれば、生れた時から「終活」は始まってはいるのだが、それにしてもわが人生において私はどれほどのことを成し得たのか覚束ない。過ぎたことを悔やんだり、自慢するのは御免だ。どちらも面倒くさい。いつも今を限りと、今なすべきことを為すばかりではある。
そういうことからすれば、わが亡き後の弟子の人生に、少しでも後顧の愁いなきように始末するのも「わが終活」なのではないかと思う訳である。さて、どれほどのことができるのか。覚束なさは半端ない。常日頃から「ご縁は授かりもの。選べないことが本質だ。だから宝物なんだ」と、わかったようなことをくり返しているのだが、わがこととなると、無理にもやりにも手に入れたくなる愚かさに唖然とする。黙って手を拱いているしかないのかな。
待てば海路の日和あり。余り物には福がある。見合い、恋愛。どちらにしても「出会い・めぐりあわせ」の話しであろう。そんな「場」を作ってあげるという神技が私にできるのかどうか。これもまた覚束なさが半端ない。
誕生日は親に感謝する日でもあるとだれかが穿ったことを言っていたが、子供に感謝する日となった次第であるが、そんな親孝行な倅へのお返しに何ほどのことができるのか、改めて思い知らされた日でもあった。わが終活もまた迷いを重ねていくようなことになりそうだ。

「暮秋」
朝に夕に人恋しさよ能登暮秋
薪を割る冬将軍の来る前に
念仏の里の日和よ蕎麦は実に
秋耕の顔はとつくに暮れてをり
親芋の横に子芋の干されあり
刈り置きし萩の山より蝶の翔つ
暮れてゆく水の行方や崩れ簗
能登沖に走る白波稲架を解く
日もすがら里は籾殻焼く煙り
新藁の日向に赤子置きにけり
棺桶を担ぐ顔ぶれ鎌祝
さやけさに秋明菊の丈高く
山は暮れ空暮れ残る晩稲刈
裏山に鴉群れ啼く秋の暮

「終活」
霜降の朝よしづけき勝手口
秋思いまこころならずも飯を食ふ
晴々と照葉紅葉に雨の降る
松手入れ当てにならざる空の下
棺桶の中もかくやと花野みち
来た道をふりさけ見れば紅葉山
流れゆく月日の障子貼りにけり
捗らぬ終活酒を温めむ
露の世を迂闊に生きて六十年
明日なくば生きた心地のせぬ尾花
花茗荷酒の肴に死出の旅
われもまた豺の祭りし獣にて
戸を叩く夜風のすさび走り蕎麦
悪い子はいねえよ夜のきりたんぽ
死ぬる世に囚はれ燈火親しめる
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