貧に学ぶ

 

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裸木となりて清々してゐたる 玉宗


「学道の人は尤も貧なるべし」という道元禅師のお示しがあります。

豊かであってはならない。「貧」であることこそそが「道」に親しむ要諦だというのです。貧しくてしかも道を思う者は、昔の賢人や後世の聖人が仰いでたっとぶところであり、仏祖や目に見えない世界の神たちのよろこばれるところであるといわれます。

「貧」とは何か?

先ず、ここに足ることを知らない、むさぼりの心に焼かれる人間がいることを問題としなければなりません。我欲・執着の世界から眺めたならば物の多少が人生の価値を左右するが如く見えていることでしょう。
物だけではなく、名誉地位、肩書き等を欲しがるのも人間の執着心です。裸で生まれてきた人間が、いつの間にやら、手に負えぬほどの物心両面に及ぶ荷物を背負い生きています。物の「豊かさ」一辺倒の人間には「道」に足を踏み入れる機会が失われます。

「仏道を学ぶ」とは自己の真の自立を習う生き方です。実相はあるがままであり、貪ることも拘ることも僻むことも偉ぶることも必要としないほどの「貧の極地」です。あるがまま。眼横鼻直。真相は常に「貧」とか「豊」であるとかを超越して、只、かくのごとしです。

本来「天地いっぱい」のいのちを生かされている私。わが物というものはあり得ないことに目覚めなければなりません。私できるものはあり得ない、というのが存在の前提です。全て「公」にして「無心」なるものです。本来的に執着の仕様がありません。「貧」が「道」に親しいのは、そのような存在そのものに真相に尤も近いからなのです。仏弟子たるもの「足りている」ことを学ぶ覚悟がなければなりません。




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「神も仏も」

年用意神も仏も山河大地も

凍笛の海よ黒島天領地

松飾り櫛比庄なる寺の町

参道に裏表ある師走かな

経あげて寺の餅つきに始りぬ

本家分家とお盆に載せて餅配り

總持寺の寺領に老いて冬籠

恐ろしき仁王の臍も煤払

暦日の一円相も古りにけり

八幡へ大蛇の如き注連飾り

總持寺へ年貢納めに行くといふ

神仏に見放されたる湯冷かと




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「少し」

冬鳥の石の固さに斃れ伏し

餅つきを終へてへとへとしてゐたる

水仙の少し捻くれ真つすぐに

熊野より句集の届く年の暮

流れゆく年に乗り遅れぬやうに

松飾る通りすがりの人生に

天地の息潜めてや冬景色

年越すに少しばかりの浪費して

数へ日の痣に覚えのなかりけり

外浦の夜空ゆるがし鰤起し

花札の愈々佳境月冴ゆる

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