布施は人のためならず

喜んで寺に大根捨てに来る 玉宗
世に言う「情けは人の為ならず」は、人のためにならないから情けをかけるべきではないとか、結局は自分のためなのだから情けは大切なものだとか、世間では二通りの解釈があるようです。「情をかける」という行為も一つの「布施」です。身と口と心の「三業」を以って貪りの世界に生きることもできるし、同じく三業を「布施」の世界に活かすこともできます。手が為すところの業も、信心の実践として合掌することもできれば、自他を傷つける業苦の因ともなります。金銭は言うに及ばず、言葉一つ、眼差しひとつ、微笑み一つ、こころ一つでさえ惜しみ、貪る人間です。
心という目に見えないものに人間は結構誤魔化され、迷わされ、引きづられる。そして、一方では「もの」という目に見えるものに執着し、迷わされることも又多い。人間はなぜか、ただそうある事実をありのまま受け入れることができません。偏らず、貪らず、諂わず、身と心をまっすぐ生きることは容易ではないかのようです。
「布施」もまた人の為ではなく、自己のまっさらな世界を更に清浄にするための行為として捉えたいものです。「布施」は一見「一方通行」のように見えますが、実際のところは円相の世界の様子です。自他一如であるがゆえに、全ては自己の世界の様子であるがゆえに、本来貪る理由がないのです。もの足りようとする以前にいのち足りている事実に身も心も委ねることが求められています。布施もまた人の為ではありません。「布施」の実践は自己の清浄な世界の表現であったのです。 〈 法話集『両箇の月』より 〉

「雑詠二十句」
冬鳥や片付けものをしてをれば
大陸の夢を遥かに鷹の舞ふ
牡蠣殻の山と積まれて七尾線
抽斗の中懐かしき十二月
何がなし淋しと歩き出す千鳥
情けなど疾うに捨てたるずわい蟹
鮟鱇の見捨てられたる貌をして
一枚の鮃が泳ぐ飛ぶやうに
闇黒に目鼻付けたる海鼠かな
枯蓮や惨劇果てし如くにて
寺を抜け冬菜を洗ふ水となる
綿虫の掬はんとして零れたる
憂きことの思ひ出せずに日向ぼこ
裏山へ上れば見ゆる冬景色
橋渡る人の景色も冬めきて
なにもかも過ぎたることよ帰り花
山茶花の散るに任せて冬籠
蓮根掘る腰から下のよく冷えて
綿虫や別れ惜しめと言はんばかり
山寺の鐘に暮れゆく師走かな

「あえのこと」
棚田より見ゆる能登沖冬の虹
奥能登のあえのことなる神迎へ
棚田吹く風の寒さも十二月
外浦の沖は大陸冬椿
裃に長靴穿いて冬田打つ
田の神を迎へ入れたる冬座敷
薪を割る気合ひの息も白かりき
忌明けなる昼酒美味し帰り花
皸の疼く風の日風の夜
夢の世の囚はれの身の蒲団かな
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