仏道という生き方



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魚は氷に仏弟子山に上りけり 玉宗

市内にある福祉施設から職員を対象にした法話の依頼があった。世に福祉産業といった名称があるのかどうか存知しないが、時代の要請のしからしむるところといった観が否めない。常識化していると云ってもよい。人間社会には様々な生き方があるのが現実である。その道に入ったならばその道の作法、宗旨、規範、通塞があろう。福祉産業の道をとやかく云う資格など私にはない。私は私の道の様子を語ろうと思っている。それが他の道を行く人にとって、些かの標とされば幸いなことである。

福祉(Welfare)とは「しあわせ」や「ゆたかさ」.を意味する言葉だそうである。恐らく明治に翻訳された言葉なのではなかろうか。それ以前はなんと呼ばれていたのだろうか。福祉といえば公共の福祉・社会福祉・ソーシャルwelfareが通念であるが、上記のような本質から云えることは個人の福祉・パーソナルwelfareといった視点があってもいいだろう。前者は最大公約数的数量値として捉えることが出来るとするならば、後者は存在そのものの絶対値を指し示すものとしたい。そして宗教・仏道とは私個人のいのちの深さ、在り様、豊かさに私自身が切りこんでゆく世界のことであり、当に個人の福祉・パーソナルwelfareの領域であると云って差支えなかろう。仏道は存在そのものへの探求、道程が初心であり、全心であると思いたい。
 
社会が横のつながり、横軸の問題とするなら、宗教は個人のいのちそのものの深さへのつながり。縦軸の問題であろう。勿論、人間の存在とは個的なものでありつつ、社会的なものであるのが実際である。人生はいのちの横軸と縦軸の座標の輝きであろう。どちらもいのちの現場の話である。そうでなければならない。

仏道は先ずその縦軸の構築を守備範囲とする。換言すれば私のいのちの実相を拠り所として人生を真っ直ぐ生きて行く歩みである。学びである。実践である。その様にして社会へ関わる。自己の福祉を弁えることが出来なくて、社会福祉もなかろう、という理屈もあながち見当外れでもないと思う。その福祉の現場とは言いかえれば、いのちの尊厳性を問われていることでもあろう。

「生きていることにいみはあるのか?いのちに意味はあるのか?私は何のために生まれ、生きて、死んでいくのか?」社会福祉の現場に於いても、そのような自問自答が避けられないのではなかろうか。仏道は「意味付け」を超越して「生きている事実」実相の尊厳性を説かなければならない。

「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」ここにもいのちの縦軸を拠り所とした人間の生き方が示されていよう。どのような境涯になったとしても、私がどのような姿勢で生きていくのかが問われ、試されている。それが人生だろう。諸行無常とは予想外であるということでもある。私の分別や都合を越えたところからやってきたり、去っていったりする。なるようにしかならない。誤魔化しの利かない世界で生き死にしていることに目覚めなければならない。それを「信」というのではないのか。

そのような人生で、生きている意味を自問自答するならば、それは自分が見つけ出し、目指して行くべきものであると覚悟しなければならない。意味を越えて生きるとはそういうことだ。ありのままのいのちをありのままに頂き、そして、いのちありのままに尽くし施して生きていく、それが私の人生の一大事因縁、福祉なのであるということ。生老病死、それぞれの今がある。今の生老病死がある。今のいのちがある。人は誰もがいつも、かけがえのない今があるばかりだと心得て自己に寄り添い、人に寄り添う。そんな福祉の人になりたいものである。

「仏道を習ふというは自己を習うなり,自己を習ふというは,自己を忘るるなり,自己を忘るるというは,万法に証せらるるなり,万法に証せらるるというは自己の身心,他己の身心を脱落せしむるなり」
(正法眼蔵現成公案)

云うまでもなく、私は仏道という生き方を選んだ人間である。一度きりの、諸行無常の人生を、掛け替えのないいのちを仏道に賭けたのである。それは仏道に身を捨て、心を捨てたということである。そういうことでなければならない。そこには欲望に振り回される世界に見切りをつけた初心があった。出家とは本来そういうことではなかろうか。仏道とは何か?自己を習うことだと開山は云う。

自己とは何か?習うとは何か?目覚めなければならない。存在への切り込み。いのちの深さ、豊かさの検証。自己の実相こそが自己の依る辺であるという極めてあたり前の事実。その事実への回帰、そして往還。いのちとはだれのいのちか?だれのものではない。徹底自己のいのちの話であり、その様にして仏弟子は自己を極めて社会へ関わって行く。仏道はそのようなアプローチで社会に参加し、役に立とうとしてる。どこまでも絶対いのちの領域からの話であり、実相を差し出すことでぶれない生き方を示し、そのような仕方でいのちの尊厳を説くのである。ここに至って仏道は宗教に括られて一向に構わないものとなろう。人生の拠り所、生きる姿勢、バックボーンとしての存在意義を担保している。

そこには欲望を越えた世界を顧み、掌とするものだけが諸行無常をわがものとすることが出来るという矜持がある。それは競争ではないが、競争ではないからこそ徹底自己責任の、誤魔化しの利かない世界である。仏道の通塞もまた那辺に自得させられる代物なのであり、自得であるからこその救いなのである。私たちは本来そのような偏りのない、比較を越えた可能性に満ちたいのちを戴いて生きている。それこそがいのちの尊厳であり、生きていく意義であることを私は疑わない。私にとって福祉とはそのようないのちへの目覚めと寄り添いでなければならないと思っている。
 〈 エッセイ集『拝啓、良寛様』より 〉


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「まだ」
風にまだ雪の香りや榛の花
斑雪村老いゆく父と母のゐて
春風や大した用もないのだが
まだ生きてゐたのかといふ蕗の薹
庭に出て日向恋しき椿かな
金縷梅や眠り足らざる山裾の
山鳥に木々の騒めく涅槃寺
古草を踏んづけてゆく長靴で
はこべらを食うて元気な卵産む
まだ食へる春の夢より覚めにけり


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「曼荼羅村」
雉鳴くや曼荼羅村の朝ぼらけ
亡き母を想へば泣ける針供養
春川の光りを返すささ流れ
過去帳に水子の多し斑雪村
雪解の子風の子山羊の乳搾る
村あげて田遊びに膝揃へたる
雑巾の如く汚れし恋の猫
春子榾山と積み置く典座裏
つちくれの息吹き返す雪解村
堂奥の闇に掛け置く涅槃像




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