いのちの尊さに生きる

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生きものの脛に傷ある涅槃かな 玉宗

女性差別問題で揺れている日本社会だが、仏道にあってはどうなんだろう。ひと昔前までは尼僧さんは格のあるお寺の住職になることができなかったことを宗門人ならば知らぬ人もおるまいし、知らぬふりをすることもできまい。現代でも宗門に於ける尼僧の相対数は低いが、今では愛知専門尼僧堂堂長でもある青山俊董老師は宗門を牽引する宗師家として知られている。

 嘗て、道元禅師は高野山に女人禁制の結界があることを嗤っていた。仏道に男も女もない。性を越えてひたすら仏法のために身を尽くし心を尽くすことだけが求められていることからして、それは至極当然である。

 出家するしないは時節因縁のしからしむるところで、一般論として片付けられない問題である。女性差別問題を論ずるには俎上に載せるのに適当ではないのかもしれないが、それにしてもお釈迦様も男僧も尼僧も、母親のお腹を借りてこの世に下生してきたのには違いない。

 出家とは自己再生ということであるとすれば、それはいのちの尊さを再確認する方便でもあろう。一度生まれ落ちただけでは腑に落ちない手間のかかる人間がこの世にはいるというのが実際のところだ。そんな宗教の世界だが、その宗教とはひとえにいのちの話しであり、絶対的に孤独な自己のいのちをまっすぐ戴く学びであり、実践である。そこにはどうしても「いのちの実相」に目覚め、その尊さを掌として生き抜くための知恵を得ることが期待されていよう。

 いのちの尊さ。それは人智を超えた法の世界からの授かりものであり、わが思いを越えた計らいであるからこその尊さ、宝なのであるということ。自分の思い通りに生まれて来た者など一人もいない。母親もまた同様であり、そんな母親がお腹を痛めて子を産んだのには違いなかろうが、世に誰一人として「わたし一人の力で産んでやった」などと思っている母親はおるまい。否、お腹を痛めた母親こそが「思いを越えた世界からの授かりもの」という実感を強く抱いているのではないのかな。

子どもはそんな親の思いを知らず「なんで勝手に産んだんだよ」などと悪態をついたりするものだが、親にしたって「なんでこんな出来の悪い子をさずかったんだろう」という言い分が残されている。授かりものであるからには母親ではなく神様にその愚痴の矛先を向けるべきである。人生は理屈で割り切ろうとしても割り切れるものではない。

 要するに「いのちは授かりもの」であるからこその「宝」なのであり、人生はその「宝」を如何にして活かすかということが試されている学びの道程であるということだ。そんな命の摩訶不思議さを戴いているお互いであり、そこに親も子も、男も女も、、出家も在家も、男僧も尼僧も、なかろうというものだ。社会とはそんな孤独にして摩訶不思議ないのちの尊さを生きている人間同士の支え合いである。人のいのちは人が思うほどに小さくも狭くもない。だれもが天下一品であるからこその尊さ。それは個々のいのちの尊さ、一人一人のいのち縦軸の話しである。

 支え合い、補い合い、施し合ういのち横軸の尊さがそのままなにがあってもぶれないいのち縦軸の尊さとなるような社会。多様性が多様性のままに尊ばれ活かされる社会になればそれに越したことがはない。そんな社会が来るのだろううか。



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「懐かしき」
春めきて何処吹く風の懐かしき
吾輩の妻にすり寄る猫の夫
約束を忘れないでと鶴帰る
残雪や能登も湯の沸く辺りにて 
海女渡り小鳥は帰る舳倉島
残されし鴨だといふに妙に元気な
そぼ降れる雨なつかしき木の芽かな
もしかして春一番ではなからうか
春の虹少し背伸びをしてみたく
懐かしき夕空鳥は雲に入り



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「平凡」
白梅や仄かに翳す紅のいろ
紅梅の火のいろにして冷たかり
水仙のひかりまぶしき黄なりけり
連翹のひかりぶちまけ咲きにけり
花すみれ死ぬゆくときは行儀よく
死水に濡れし唇鳥帰る
平凡は恐ろしはうれん草茹でる
鼻息が鶯餅の粉を吹く
点眼に仰ぎし春の灯かな
棒鱈をしゃぶりて夜の一人酒

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