總持寺開山太祖常済大師



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諸嶽山總持寺開山弘徳圓明国師太祖常済大師瑩山紹瑾大和尚は、文永元年(1264)10月8日陽暦11月21日に出生されました。生誕の地は、越前国多彌観音堂之敷地(現・福井県武生市帆山町)とも、福井県坂井郡丸岡町山崎種の地とも伝えられています。

幼名は「行生」。8歳にして剃髪、永平寺三世徹通義介和尚に参じ、永平二代孤雲懐奘和尚末後の小師となります。「瑩山」の「瑩」はあきらかな光り、玉に似た美しい石。光り輝く美しい宝の山の意。「紹瑾」の「紹」は受けつぐの意。「瑾」は美しい玉の意となります。

その後、禅師は宝慶寺寂円禅師など諸方を参学されました。本師となる義介禅師さまとの嗣法に於ける問答が伝えられています。師に「平常心」の意趣を問われて瑩山禅師は次のように応えられました。

「飯に逢うては飯を喫し、茶に逢うては茶を喫す」

義介禅師は日常底にこそある禅の深い境地を認め、瑩山禅師が徹底大悟されたことを印可証明されました。 翌年には道元禅師から伝わったお袈裟が瑩山禅師に譲られました。

1295年、瑩山禅師は徳島県に迎えられて城満寺を開き、さらに九州に渡って熊本県の大慈寺の住職である寒厳義尹禅師を訪ね、さらに悟ったあとの修行を積まれます。

1299年、義介禅師の願いにより大乗寺に戻り、翌年から歴代の祖師達の行状を説いた『伝光録』の提唱をされ、「信心銘拈提」「坐禅用心記」などの撰述、1305年35歳の時、義介禅師より大乗寺住職の座を譲られ第二代住職となりました。

このころから瑩山禅師の徳を慕って多くの弟子たちが集まり、その中には、後に曹洞宗発展に貢献した明峰素哲禅師や峨山紹碩禅師達もおられました。

1311年には大乗寺を明峯素哲禅師に任せ、加賀の浄住寺の開山となり、翌年には浄住寺を無涯智洪和尚に任せ、石川県酒井保の地に洞谷山永光寺を開かれました。

51歳の時、母懐観大姉が87歳で生涯を閉じると、禅師様は永光寺の勝連峯に円通院を建て、母が信仰していた十一面観音像を安置し、女人済度の祈願所としました。本尊十一面観音は母の念持仏であり、その台座に禅師の「生髪」「臍の緒」が納められています。禅師様は十一面観音の申し子ともみなされていました。 

そして、元亨元年(1321年)總持寺開創となります。

禅師54歳の時、能登国鳳至郡櫛比庄の諸丘寺住職であった定賢律師は、ある晩観音様の夢を見たといわれます。「永光寺にいるすぐれた僧がやがてこの地に来られるだろうから、その方に寺を譲りなさい」 そのようなお言葉を夢で観音様から頂き、そのお告げどおりに来た瑩山禅師に諸丘寺を譲ったのです。瑩山禅師もまた四月二十三日暁天に観音菩薩に導かれ古寺に至る夢のお告げを受けています。「總持の一門、八字に打開す」とはそのときの入山法語です。

その後、定賢律師より正式に諸岳寺観音堂の寄進を受けました。禅師はこの寺を諸嶽山總持寺と名付けられ、人々の救済につくされました。後醍醐天皇が出した十種の勅問にも丁寧に答えられ、「曹洞宗出世の道場」の綸旨を与えられました。その後、總持寺から永光寺にいったん戻られ、永光寺に開山堂を建て、五老峯と名付けました。五老峰には、道元禅師の師である如浄禅師の語録、道元禅師の遺骨、懐奘禅師の血経、義介禅師の嗣書、瑩山禅師自身の嗣書を安置し、曹洞宗の教えを永く後世に伝えようとされました。

1324年、總持寺十箇条を示され、大本山の名にふさわしい坐禅修行の道場として充実したので、禅師は峨山紹碩禅師に總持寺を任せて引退し、永光寺に戻り『瑩山清規』を制定し、修行僧の規則や作法を示されました。こうして多くの人々の救済に力を注いできた禅師ですが、1325年の春に健康を害し、9月29日、ついに弟子たちが見守る中、58歳で亡くなられました。

瑩山禅師は喫茶喫飯の平常心に徹することで、師である徹通義介禅師から印可証明を受けました。最期まで日常底に生き抜いたことを弟子達に示すと同時に、自らの法を弟子達に伝え、遺偈を詠んだ瑩山禅師は筆を抛ってそのまま遷化されました。

永光寺では入般涅槃の儀式を行い、法によって荼毘され、遺骨は瑩山禅師ゆかりの寺院である大乗寺・浄住寺・總持寺などに分配され、それぞれに舎利塔を建て埋葬されました。瑩山禅師によって開かれた總持寺は曹洞宗出世道場としてその基礎を固め、曹洞宗はこの能登の地を拠点にして発展していったのです。禅師はその後、御村上、後桃園、明治天皇からそれぞれ、仏慈禅師、弘徳円明国師、常済大師の諡号を賜りました。

總持寺は1898年に火災に遭い、のちに現在の神奈川県横浜市鶴見に移転し、曹洞宗発展の基盤として大いに栄えました。鶴見の總持寺はその地の利を生かし、禅の国際化に向けて世界に開かれた禅苑として重要な役割を果たしています。また、總持寺発祥の地である能登には、總持寺祖院として御開山の霊廟であることが示されています。

曹洞宗ではその宗旨の亀鑑を天下に示された道元禅師と、その教えを全国に広める基礎を整えた瑩山禅師のお二人を両祖とし、永平寺總持寺を両本山として尊崇し、今に正伝の仏道を伝えています。〈 法話集『両箇の月』より 〉




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「踏んだり蹴たり」
春や淋しも兄より老いてしまひけり
霾るや一人で生きてゆけとこそ
霞み晴れ杉菜の森が濡れ残る
松ぼっくり踏んだり蹴たりして四月
沖明けの風に虎杖揺れ已まず
花屑にくるくる舞ひの旋毛風
シャボン玉儚きことを楽し気に
逃げてゆく風船泣きじゃくる背なの子
踊子草蜂が覗いてゆきにけり
春愁の砂の足跡波が消し



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「立山・二十句」
七尾なる峰に城跡竹の秋
立山を氷見より望む峠越え
漁るや立山沖に春霞み
山高く海深くして蜃気楼
梨の花小矢部を過ぎし辺りより
雪国を花と寄り添ふ二輪草
囀りをわが空に聞く散居村
立山の朝日にひらくチューリップ
麦青む砺波は風もひろびろと
雪形の窶れて春を耕せり
田巡りの水音豊かに灌仏会
立山を越えて一気に春田風
残雪をめぐり巡りて黒部川
庄川の土手吹く風の菜花かな
蒲公英の絮に潮風有磯海
逃水を渡る越中国境
風にまだ雪の香残る桜かな
護国寺の石楠花護摩の炎なす
聳え立つ立山連峰桜冷
富山より花屑付けて戻りけり


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