人生の一大事 寺を抜け大根洗ふ水となる 玉宗 人生の一大事とはなんでしょうか。 生きていると次から次と様々な課題が生まれて来るものです。然し、それらの全てが「一大事、重要課題」と言い切るには大いにためらいがあります。一度きりの人生で、そんなことは採るに足りないと言いたくなるような「課題」が結構あるものです。人はただ「食べるために… トラックバック:0 コメント:0 2020年12月25日 続きを読むread more
枕 経 弔ひの夜はよく爆ぜる炭火かな 玉宗 死者の枕もとであげる読経を「枕経」と言います。 末期の水を含ませ、手を合わせデスマスクを拝していつも感じることがあります。それは「ごくろうさま」という言葉に象徴される感慨です。故人とは殆ど他人であることが多いにも拘らず、自然とそのような感懐が湧いてきます。まして遺族となった方々… トラックバック:0 コメント:0 2020年10月16日 続きを読むread more
大般若経転読 絶望に何かが足りぬ糸瓜かな 玉宗 大本山總持寺祖院では毎日朝のお勤めに大般若経六百巻を転読しています。そこには「空」の真理が様々な角度から何度も繰り返し説き示されて、あたかも私どもの煩悩の根深さというものを教えているもののようでもあります。 私には私の世界という有難くも厄介なものがあります。絶望はそのような私… トラックバック:0 コメント:0 2020年10月12日 続きを読むread more
雲水 雲のこころ水のこころや爽やかに 玉宗 「雲水(うんすい)」という言葉は「行雲流水」又は、「雲心水意」の意です。「雲衲霞袂」とう言葉もあります。雲を衣とし霞を袂とする。禅の修行者のことを「雲水」と呼びますが、行く雲流れる水のごとき自在にして拘りなき境地を理想とするところからきています。逆に、留まるということは執着するとい… トラックバック:0 コメント:0 2020年10月02日 続きを読むread more
命の尊さ いのちほどの火の恋しさよもみづれる 玉宗 わたくしどもは、社会という謂わば横軸の世界に生きています。災害からの復興といったこともそのような世界での支え合いとも言えましょう。そのような地平でのいのちの価値、評価、相対的意義づけとでも言うべきものを与えられたりします。支え合う横軸の世界。それはそれで尊い事ですが、何… トラックバック:0 コメント:0 2020年09月30日 続きを読むread more